ゆふはん》には何を仕度しやうと尋ねた。「御酒をつけますか。」斯う附添して言つた。
「あゝ、お爛を熱くして持つて來とくれ。」とK君が答へた。
「姉さん、それから御酒《おさけ》は上等だよ。」
 吾儕の身體も冷えては居たが、湯も熱かつた。谷底の石の間から湧く温泉の中へ吾儕は肩まで沈んで、各自《めい/\》放肆《ほしいまゝ》に手足を伸ばした。そして互に顏を見合せて、寒かつた途中のことを思つて見た。
 其日、吾儕の頭腦《あたま》の内《なか》は朝から出逢つた種々雜多な人々で充たされて居た。咄嗟に過ぎる影、人の息、髮のにほひ――汽車中のことを考えると、都會の空氣は何處迄も吾儕から離れなかつた。吾儕は、枯々な桑畠や、淺く萌出した麥の畠などの間を通つて、こゝまで來たが、來て見ると斯の廣い湯槽《ゆぶね》の周圍へ集る人々は、いづれも東京や横濱あたりで出逢さうな人達ばかりである。男女の浴客は多勢出たり入つたりして居る。中には、男を男とも思はぬやうな顏付をして、女同志で湯治に來たらしい人達も居る。その人達の老衰した、萎びた乳房が、湯氣の内に朦朧と見える。吾儕は未だ全く知らない人の中へ來て居る氣はしなかつた。
 湯
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