「そろ/\腹が減つて來たネ。」
 とK君は私を見て笑ひ乍ら言出した。大仁の町はづれで、復た/\馬車屋が追馳けて來たが、到頭吾儕は乘らなかつた。「なあに、歩いた方が反つて暖いよ。」斯うは言つても、其實吾儕はこの馬車に乘らなかつたことを悔ゐた。それほど寒い思をした。山々へは雪でも來るのかと思はせた。私の眼からは止處《とめど》もなく涙が流れた。痛い風の刺激に逢ふと、必《きつ》と私はこれだ。やがて山間に不似合な大きな建築物《たてもの》の見える處へ出て來た。修善寺だ。大抵の家の二階は戸が閉めてあつた。出歩く人々も少なかつた。吾儕《われ/\》がブル/″\震へながら、漸くのことである温泉宿へ着いた時は、早く心地《こゝろもち》の好い湯にでも入つて、凍えた身體を温めたい、と思つた。火。湯に入るよりも先づ其方だつた。
 湯治に來て居る客も多かつた。部屋が氣に入らなくて、吾儕《われ/\》は帳場の上にある二階の一間に引越したが、そこでも受持の女中に頼んで長火鉢の火をドツサリ入れて貰つて、その周圍へ集つて暖《あた》つた。何となく氣は沈着《おちつ》かなかつた。
 湯に入りに行く前、一人の女中が入つて來て、夕飯《
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