方まで多く桑が植付けてあつた。蜜柑は黄色く生《な》つて居た。「こゝから英雄が生れたんだらうね。」とA君は河岸に散布する幾多の村落を眺め入りながら言つた。ある坂の上まで行くと、吾儕は河津の港を望むことが出來た。海は遠く光つた。
 下田へ近づいた。女は烈しく勞働して居た。吾儕は車の上から街道を通る若い男や娘《をんな》の群に逢つた。その頬の色を見たばかりでも南伊豆へ來た氣がした。
 夕方に下田に着いた。町を一※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]りして紀念の爲に繪葉書を買つて、それから港に近いところへ宿をとつた。奧の方の二階から眺ると、伊豆石で建てた土藏、ナマコ壁、古風な瓦屋根などが見渡される。泥鰌を賣りに來る聲が其間から起る。夕方であるのに、斯の尻下りのした泥鰌賣の聲より外には何も聞えなかつた。夕餐《ゆふげ》の煙は靜かな町の空へ上つた。
 宿の内儀《おかみ》さんは肥つた、丁寧な物の言ひやうをする人だつた。夕飯には吾儕の爲に鰒《あはび》を用意して、それを酢にして、大きな皿へ入れて出した。吾儕は湯が島の鳥の骨で齒を痛めて居たから、この新しい鰒を味ふには大分時が要《かゝ》つた。M君は齒を一枚
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