一里ばかり下りた。謔語《じやうだん》のつもりで言つたことは眞實《ほんたう》に成つて來た。實際、菜の花が咲いて居た。青草は地面《ぢべた》から頭を持上げて居た。
 湯が野へ着いたのは丁度晝飯を食ふ頃だつた。そこで馬丁は別を告げた。二日の間の旅で、吾儕はこの馬丁と懇意に成つて、知らない土地のことを種々《いろ/\》と教へられた。この馬丁から、色男の爲に石碑を建てたとかいふ洋妾《らしやめん》上りの老婆《ばあさん》のことまで教へられた。その健康で且つ金持の老婆が住むといふ邸の赤い窓を吾儕は車の上から見て通つて來た。
 湯が野ではすこしユツクリした。こゝにも温泉があつた。洋服を脱ぐのが面倒臭いから、私は入らない積りだつたが、皆なに勸められて旅の疲勞《つかれ》を忘れに行つた。こゝの宿から河津川《かはづがは》が見えた。二階の部屋の唐紙《からかみ》に書いてある漢詩を眺めながら晝飯《ひる》を濟ました。こゝにはウマイ葱があつた。
 別の馬車に乘つて、やがて下田を指して出發した。吾儕は椿の花の咲いて居る蔭を通つた。豐饒な河津の谷は吾儕の眼前《めのまへ》に展けて來た。傾斜は耕されて幾層かの畠に成つて居た。山の上の
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