温暖《あたたか》に成つた。道路には最早霰が消えかゝつて居た。
樂しい笑聲は馬車の中に起つた。
「成程すこし暖いや。」とA君が言出した。
「見給へ。」と私は謔語《じやうだん》のつもりで、「今に菜の花が咲いてるから。」
「ア、海の香《にほひ》がして來た」とA君は戲れて言つた。
この「海の香がして來た」には、笑はないものは無かつた。
また半里ばかり下りた。温暖《あたゝか》な日光が馬車の中へ射込んで來た。吾儕は爭つて風除の布を揚げた。それほど激しく日光に渇いて居た。
「南と北とは斯うも違ふものかねえ。」とK君は地圖を取出して見る。
「K君、あの路傍に植ゑてあつた若い並木は何と言つたツけ。」と私が聞いた。
「ヤシヤさ。」とK君は答へた。「僕は忘れないやうに鬼で記憶《おぼ》えて置いた。」
其時M君はこれから皆《みん》なが行かうとして居る下田の噂をした。
「奈何《どん》な港でせうなあ。H君の話では何でも非常に淫靡な處《とこ》ださうですね――今日は雪舟から歌麿ですかナ。」斯う言つたので、車中のものは笑はずに居られなかつた。
それから一里ばかり下りた。村があつた。畑の麥もすこし延びて居た。また
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