内儀さんに逢つた。「此邊には山芋《やまのいも》は有りませんかね。」と私は内儀さんに尋ねて見た。
「ハイ、見にやりませう。生憎只今は何物《なんに》も御座《ござい》ません時でして――野菜も御座ませんし、河魚も捕れませんし。」と内儀さんは氣の毒さうに言ふ。
「芋汁《とろゝ》が出來るなら御馳走して呉れませんか。」
斯う頼んで置いて、それから谷を一※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]りした。吾儕の爲に酒を買ひに行つた子供は、丁度吾儕が散歩して歸つた頃、谷の上の方から降りて來た。
夕方から村の人は温泉に集まつた。この人達はタヾで入りに來るといふ。夕飯前に吾儕が温まりに行くと、湯槽の周圍《まはり》には大人や子供が居て、多少吾儕に遠慮する氣味だつた。吾儕は寧ろ斯の山家の人達と一緒に入浴するのを樂んだ。不相變《あひかはらず》、湯は温《ぬる》かつた。容易に出ることが出來なかつた。吾儕の眼には種々《いろ/\》なものが映つた――激しく勞働する手、荒い茶色の髮、僅かにふくらんだばかりの處女《をとめ》らしい乳房、腫物の出來た痛さうな男の口唇《くちびる》……
夕飯には吾儕の所望した芋汁は出來なかつた。お菜《かず》は、鳥の肉の殘りと、あやしげな茶碗蒸と、野菜だつた。茶に臭氣《にほひ》のあるのは水の故《せい》だらうと言出したものがあつたが、左樣言はれると飯も同じやうに臭つた。こゝの女中が持つて來た宿帳の中には吾儕が知つて居る畫家《ゑかき》の名もあつたので、雜談は復たそれから始まつた。晝の間寂しかつた溪流の音は騷然《さわが》しく變つて來た。寢る前に吾儕はもう一ぱい入浴《はいり》に行つた。
朝早く湯が島を發つた。吾儕を待つて居た馬車は、修善寺から乘せて來たのと同じで、馬丁《べつたう》も知つた顏だつた。天城の山の上まで一人前五十錢づゝ。夜のうちに霰が降つたと見えて、乘つて行く道路《みち》は白かつた。
「A君。」と私は膝を突き合せて居る友達の顏を眺めた。「斯うして天城を越すやうなことは、一生のうちに左樣《さう》幾度も有るまいね。」
「さうさナ、精々もう一度も來るかナ。なにしろまあ能く見て置くんだね。」
斯うA君が答へた。其日A君が興奮した精神《こゝろ》の状態《ありさま》にあることを私はその力のある話振で知つた。朝日が寒い山の陰へ射《あた》つて來た。A君は高い響けるやうな聲を出して笑つた。
馬丁は馬車から降りて、馬の轡を執りながら歩いた。山の上までは斯うして馬に附いて行くといふ。彼は自分の財産を護るやうに――ある時は一人の友達を頼みにするやうに、馬を大事にした。馬も彼の言ふことを聞いて、脚に力を入れ、吾儕を乘せた重い車を牽きながら、御料林の中の山道を進んで行つた。
茅野《かやの》といふ山村の入口で吾儕は三人ばかりの荒くれた女に逢つた。「ホウ、半鐘がありますぜ。斯樣なところに旅舍《やどや》も有る――是《この》次に來る時は是非あの旅舍《やどや》で泊めて貰ふんだネ。」とA君は戲れるやうに言つた。この村の出はづれに枯々とした耕地があつて、向ふの方には屋根の低い小屋が見える。樵夫《きこり》らしい男が通る。吾儕の馬車はそれから一層深く山の中へ入つた。
半道ばかりの間、吾儕は人に逢はなかつた。立木の儘枯れた大きな幹が行先の谷々に灰白く露出《あらは》れて居た。馬丁《べつたう》に聞くと、杉の爲に壓倒された樅の枯木だといふ。この可畏《おそろ》しげな樹木の墓地の中を、一人、吾儕の方へ歩いて來る者があつた。男だ、いや女だ、と吾儕は車の中で爭つた。近《ちかづ》いて見ると、樵夫の妻でゞもあるか、空脛に草鞋穿で、寒い山路を平氣で歩いて居た。其邊は水草の多い、澤深い處だつた。薄日をうけた齒朶の葉も大きく物凄く見えた。それぎり最早《もう》誰にも逢はなかつた。次第に吾儕は激しい寒さを感じて來た。K君はM君と、A君と私と、二人づゝ堅く膝を組合せ、身體の熱を通はせるやうにして、互に温《ぬく》め合つた。馬車は天城の谷に添ふて一里ばかり上つた。車中の人は言葉を交すことも少くなつた。皆な默つて了つた。
「K君、幽《ふか》い谷だね。」と私は筋違に向ひ合つて居る友達の方を見て言出した。「景色が好いなんていふところを通越して、可畏《おそろ》しいやうな谷だね。」
K君は點頭《うなづ》いて熱心に眺め入つた。
「まるで冬だ。」とA君も震へながら言つた。「今だから、餘計に深いとこが能く見えるのかも知れませんナ。」
其時M君は車の上から、谷底を指《ゆびさ》して、落葉した木の名を馬丁に尋ねて見た。
「彼處に見えるのは、山毛欅《ぶな》に、欅《けやき》ださうだ。」とA君はそれを傳へた。
「アヽ、あの黒いのが山毛欅で、白いのが必《きつ》と欅ですぜ。」斯うA君が言つた。
吾儕は雪舟の畫などを引合に出して、眺めな
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