た。醉へば心地好ささうに寢て了ふのがK君の癖だ。殘る三人は、K君の鼾を聞きながら話し續けた。

 翌朝頼んで置いた馬車が來た。吾儕は旅の仕度にいそがしかつた。仕度が出來ると、直に宿の勘定をした。
「K君、僕の方で拂はう。」と私が言つた。
「ナニ僕が出しとくよ。」とK君は懷中《ふところ》から紙入を出しながら答へた。
「ホウ、かゝりましたナ。」とA君は覗いて見た。
「隨分食つたからね。」とK君は笑つた。早速M君は手帳を取出した。
 宿からは手拭を呉れた。A君の風呂敷包は地圖やら繪葉書やら腦丸やら、それから修善寺土産やらで急に大きく成つた。吾儕は宿の内儀《おかみ》さんや番頭に送られて、庭の入口からがた馬車に乘つて出掛けた。
 天氣は好くても、風は刺すやうに冷かつた。K君、A君、M君、三人とも手拭で耳を掩ふやうにして、その上から帽子を冠つた。私の眼からは復た涙が流れて來た。車中の退屈まぎれに、吾儕は馬丁《べつたう》の喇叭を借りて戲れに吹いて見たが、そんなことから斯の馬丁も打解けて、路傍《みちばた》にある樹木の名、行く先/″\の村落を吾儕に話して聞かせた。斯うして狩野川の谷について、溯つた時は、次第に山深く進んで行つたことを感じた。ある村へさしかゝつた頃、吾儕は車の上から四十ばかりに成る旅窶れのした女に逢つた。其女は猿を負つて居た。馬車は驅せ過ぎた。
 湯が島へ着いた。やがて晝近かつた。温泉宿のあるところ迄行くと、そこで馬丁は馬を止めた。吾儕はこの馬車に乘つて天城山を越すか、それともこゝで一晩泊るか、未定だつた。山上の激寒を畏れて、皆なの説は湯が島泊りの方に傾いた。
 吾儕の案内された宿は谷底の樫の樹に隱れたやうな位置にあつた。其日は他に客もなくて、溪流に臨んだ二階の部屋を自由に擇ぶことが出來た。「夏は好いだらうね。斯樣《こん》なところへ一月ばかりも來て居たいね。」と互に言ひ合つた。天城の山麓だけあつて、寒いことも寒い。激しい山氣は部屋の内《なか》へ流れ込むので、障子を開放して置くことも出來ない位だつた。洋服で來たM君と私とは褞袍《どてら》に浴衣《ゆかた》を借りて着て、その上からもう一枚褞袍を重ねたが、まだ、それでも身體がゾク/\した。
 こゝへ來ると、最早《もう》全く知らない人の中だ。北伊豆の北伊豆らしいところは、雜踏した修善寺に見られなくて、この野趣の多い湯が島に見られる。何もかも吾儕の生活とは懸離れて居る。湯は温《ぬる》かつたが後はポカ/\した。晝飯《ひる》には鷄を一羽ツブして貰つた。肉は獸のやうに強《こは》かつた。骨は叩きやうが荒くて皆な齒を傷めた。しかし甘かつた。
「姉さん。」と私は山家者らしい女中に聞いて見た。「こゝは家《うち》の人だけでやつてるね……姉さんは矢張この家の人かね。」
「いゝえ、私はこゝの者ぢや御座いません。」と女中は答へた。
 この娘の出て行つた後で、A君が、「修善寺に比べると女中からして違ふネ。吾儕《われ/\》の前へ來るとビク/″\してる。」斯う考深い眼付をして言つて居た。
 日頃樫の樹に特別の興味を持つA君は誰よりも軒先に生ひ茂る青々とした葉の新しさを見つけた。この谷底の樫の樹を隔てゝ、どうかすると、雨でも降つて來たかと欺されるやうな氣のすることがあつた。よく聞けば矢張溪流の音だつた。この音から起る混交《いれまじ》つた感覺は別の世界の方へ吾儕を連れて行つた。吾儕は遠く家を離れたやうな氣がした。
「全く世間を忘れたね。」
 とK君は力を入れて言つた。
 K君と私はこの宿の繪葉書を取寄せて書いた。私はそれをA君にも勸めた。
「僕は旅から出したことが無い。」とA君が言つた。「左樣《さう》かなあ、吾家《うち》へ一枚出すかなあ。」
「M君、君も母親《おつか》さんのところへ出したら奈何《どう》です。」と私は言つて見た。
 M君は繪葉書を眺め乍ら笑つた。「めづらしいことだ――必《きつ》と誰かに教はつて寄《よこ》した、なんて言ふだらうなあ。」
 吾儕はこの二階で東京に居る人のことや、未だ互に若かつた時のことや、亡くなつた友達のことなどを語り合つた。K君は私の方を見て斯樣《こん》なことを言出した。
「僕の生涯には暗い影が近づいて來たやうな氣がするね、何となく斯う暗い可畏《おそろ》しい影が――君は其樣《そん》なことを思ひませんか。尤も、僕には兄が死んでる。だから餘計に左樣《さう》思ふのかも知れない。」
「君が死んだら、追悼會をしてやるサ。」と私は謔談《じやうだん》半分に言つた。
「今は其樣《そん》な氣樂を言つてるけれど――。」とK君は大きな體躯を搖りながら笑つた。「彼時は彼樣《あん》なことを言つたツけナア、なんて言ふんだらう。」
 到頭湯が島に泊ることに成つた。日暮に近い頃、吾儕《われ/\》は散歩に出た。門を出る時、私は宿の
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