がら話して行つたが、そのうちに一人默り、二人默り、復た/\皆な默つて了つた。
 峠に近づいた頃、馬車は氷を製造する小屋の側《わき》を通つた。そこで吾儕は二三人の働いて居る男に逢つた。
 漸くのことで山上の小屋へ着いた。吾儕は馬車から下りた。何よりも先づ焚火にあてゝ貰つて、更にこれから湯が野まで乘るか、それとも歩いて下るか、とその相談をした。能く喋舌る老婦《ばあさん》が居て、こゝで郵便物は毎日交換されるの、あの氷を製造して居るのは自分の旦那だの。とノベツに話した。吾儕は湯が野まで乘ることに定めた。馬丁は馬に食はせて、今度は自分も乘つて、氷柱《つらゝ》の垂下つた暗い隧道《とんねる》を指して出掛けた。
 隧道を出ると、やがて下りだつた。馬車は霜崩れのした崖の側を勢よく通過ぎた。時とすると吾儕の前には、大きな土の塊が横たはつて居た。其度に、馬丁は車から下《おり》て、土の塊を押除けて、それから馬を驅つた。例の灰色の枯木が突立つた山々は何時の間にか後に隱れた。吾儕は緑色の杉林を見て通つた。その色は木曾谿あたりに見られるやうな暗緑のそれでなくて、明るい緑だつた。半里《はんみち》ばかり下りた。いくらか温暖《あたたか》に成つた。道路には最早霰が消えかゝつて居た。
 樂しい笑聲は馬車の中に起つた。
「成程すこし暖いや。」とA君が言出した。
「見給へ。」と私は謔語《じやうだん》のつもりで、「今に菜の花が咲いてるから。」
「ア、海の香《にほひ》がして來た」とA君は戲れて言つた。
 この「海の香がして來た」には、笑はないものは無かつた。
 また半里ばかり下りた。温暖《あたゝか》な日光が馬車の中へ射込んで來た。吾儕は爭つて風除の布を揚げた。それほど激しく日光に渇いて居た。
「南と北とは斯うも違ふものかねえ。」とK君は地圖を取出して見る。
「K君、あの路傍に植ゑてあつた若い並木は何と言つたツけ。」と私が聞いた。
「ヤシヤさ。」とK君は答へた。「僕は忘れないやうに鬼で記憶《おぼ》えて置いた。」
 其時M君はこれから皆《みん》なが行かうとして居る下田の噂をした。
「奈何《どん》な港でせうなあ。H君の話では何でも非常に淫靡な處《とこ》ださうですね――今日は雪舟から歌麿ですかナ。」斯う言つたので、車中のものは笑はずに居られなかつた。
 それから一里ばかり下りた。村があつた。畑の麥もすこし延びて居た。また一里ばかり下りた。謔語《じやうだん》のつもりで言つたことは眞實《ほんたう》に成つて來た。實際、菜の花が咲いて居た。青草は地面《ぢべた》から頭を持上げて居た。
 湯が野へ着いたのは丁度晝飯を食ふ頃だつた。そこで馬丁は別を告げた。二日の間の旅で、吾儕はこの馬丁と懇意に成つて、知らない土地のことを種々《いろ/\》と教へられた。この馬丁から、色男の爲に石碑を建てたとかいふ洋妾《らしやめん》上りの老婆《ばあさん》のことまで教へられた。その健康で且つ金持の老婆が住むといふ邸の赤い窓を吾儕は車の上から見て通つて來た。
 湯が野ではすこしユツクリした。こゝにも温泉があつた。洋服を脱ぐのが面倒臭いから、私は入らない積りだつたが、皆なに勸められて旅の疲勞《つかれ》を忘れに行つた。こゝの宿から河津川《かはづがは》が見えた。二階の部屋の唐紙《からかみ》に書いてある漢詩を眺めながら晝飯《ひる》を濟ました。こゝにはウマイ葱があつた。
 別の馬車に乘つて、やがて下田を指して出發した。吾儕は椿の花の咲いて居る蔭を通つた。豐饒な河津の谷は吾儕の眼前《めのまへ》に展けて來た。傾斜は耕されて幾層かの畠に成つて居た。山の上の方まで多く桑が植付けてあつた。蜜柑は黄色く生《な》つて居た。「こゝから英雄が生れたんだらうね。」とA君は河岸に散布する幾多の村落を眺め入りながら言つた。ある坂の上まで行くと、吾儕は河津の港を望むことが出來た。海は遠く光つた。
 下田へ近づいた。女は烈しく勞働して居た。吾儕は車の上から街道を通る若い男や娘《をんな》の群に逢つた。その頬の色を見たばかりでも南伊豆へ來た氣がした。
 夕方に下田に着いた。町を一※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]りして紀念の爲に繪葉書を買つて、それから港に近いところへ宿をとつた。奧の方の二階から眺ると、伊豆石で建てた土藏、ナマコ壁、古風な瓦屋根などが見渡される。泥鰌を賣りに來る聲が其間から起る。夕方であるのに、斯の尻下りのした泥鰌賣の聲より外には何も聞えなかつた。夕餐《ゆふげ》の煙は靜かな町の空へ上つた。
 宿の内儀《おかみ》さんは肥つた、丁寧な物の言ひやうをする人だつた。夕飯には吾儕の爲に鰒《あはび》を用意して、それを酢にして、大きな皿へ入れて出した。吾儕は湯が島の鳥の骨で齒を痛めて居たから、この新しい鰒を味ふには大分時が要《かゝ》つた。M君は齒を一枚
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