落した。こゝの女中も矢張内儀さんと同じやうに、丁寧な、優しい口の利きやうをして、吾儕の爲に温暖《あたゝか》い、心地《こゝろもち》の好い寢床《とこ》を延べて呉れた。吾儕は皆な疲れて横に成つた。
「アヽ、極樂! 極樂!」
 とK君は放擲《はうりだ》すやうな聲を出して、蒲團の中へ潜り込んだ。

「今日も上天氣ですぜ。天氣の具合は實に申分ありませんナ。」
 とA君は宿屋の二階から下田の空を眺めながら言つた。其朝は、伊豆の南端を極める爲に皆な草鞋穿で出掛けることにした。吾儕は勇んで旅仕度を始めた。其時M君は手帳を取出した。兎に角こゝで一度帳面の締くゝりをして、出すものは出す、受取るものは受取るとした。
「二圓と幾干《いくら》僕の方から君へ上げれば可いね。」とA君が言つた。
 M君は私の前に銀貨を置いた。「これは君の受取る分だ。」
「僕も受取るのかい。」と私は言つた。
「君には湯が島で出して貰つたから。」とA君は傍に居て説明した。
 頼んで置いた新しい白足袋が四足來た。皆|十文《ともん》だ。A君の足にはすこし大き過ぎて、ブク/\した。A君はまた宿から脚絆を借りて當てた。旅慣れたK君はその傍へ寄つて、A君が右を當てるうちに左の方の紐を結んでやつた。
「A君は痩せてるね。」とK君は私の方を見て笑ひ乍ら言つた。
「この足袋を見給へ、宛然《まるで》死人《しびと》が穿いたやうだ。」
「いくらでも、其樣《そん》な警句の材料にするが可いサ。」斯うA君も苦笑して、痩せた足に大きな足袋で、部屋の内《なか》を歩いて見た。
「僕は今迄この白足袋を穿いたことが無い。何時でも紺足袋ばかり。」とA君はまた思出したやうに言つた。「男が白足袋を穿くなんて、柔弱だ――よく阿爺《おやぢ》に言はれたものだ。僕の阿爺はやかましかつたからねえ。ある時などは、家のものゝ袖が長いと言つて――ナニ其樣《そんな》に長い方ぢや無いんでさ、女としては寧ろ短い方でさ――それを鋏でもつてジヨキ/″\切つちやつた……」
 私はA君の顏を眺めた。「君の父親《おとつ》さんは其樣《そんな》に嚴格だつたかね。」
「えゝ、えゝ。」とA君は今更のやうに亡くなつた父親を追想するらしかつた。「そのかはり、御蔭で好い事を覺えましたよ――木綿の衣服《きもの》を着て何處へ出ても、すこしも可羞《はづか》しいと思はなくなりましたよ。」
 途中の温さを想像して、K君はインバネスを置いて行くことにした。A君は衣服を一枚脱いだ。宿へは茶代だけやつて、それから新しい草鞋を穿いて、發つた。
 長津呂《ながつろ》の漁村へ行くに丁度晝迄かゝつた。そこから斷崖の間にある細道を攀ぢた。登ると、松林の中へ出た。半島の絶端を極めたいと思ふ勃々とした心が先に立つて、吾儕はこゝへ來る迄の疲勞《つかれ》と熱苦しさとを忘れた。「僕は斯ういふ路を歩いて行くのが好きサ。」とK君は私を顧みながら言つた。「僕も好きだ。」と私が答へた。やがて松と松の間が青く光つて來た。遠江灘《とう/\みなだ》が開けた。石室崎《いらうざき》の白い燈臺のあるところまで行くと、そこで伊豆は盡きた。望樓もあつた。吾儕は制服を着た望樓の役人に逢つた。この役人は寂しい生活に飽いたやうな、生氣の無い眼付で吾儕を眺めて居た。
「A君、來て見給へ。」とM君は燈臺に近い絶壁の上に立つて呼んだ。
 A君、K君續いて私もM君と一緒に成つた。吾々は深い海を下瞰《みおろ》して思はず互に顏を見合せた。其時急激な、不思議な戰慄《みぶるひ》は私の身體を傳つた。私は長くそこに立つて居られないやうな氣がした。
「同じ死ぬんなら是處《ここ》だネ。」
 謔語《じやうだん》の積りで言つて見て、私は眩暈《めまひ》を紛さうとしたが、何となく底の知れない方へ引入れられるやうな氣がした。
 燈臺の入口にある壁のところには額が掛けてあつた。その額の下に燈臺守の子供らしい娘が倚凭《よりかゝ》つて立つて居た。猶よく見やうとするうちに、一艘の汽船が駿河灣の方から進んで來た。
「あの船だ。」とK君が言つた。「船で歸るんなら、こゝに愚圖愚圖して居たんぢや間に合はない。」
「駄目らしいナア。」とA君は言つた。「吾儕が長津呂まで行くうちには彼船《あのふね》は出て了ふ。」
 斯う言ひ合つたが、成るなら歩いて歸りたくなかつた。そこで燈臺の見物をそこ/\にして長津呂の方へ引返すことにした。
 其樣《そんな》に急いで歸るにも當らなかつた。岬で見たのは別の汽船だつた。吾儕を乘せて下田まで歸る船は未だ來なかつた。汽船宿で聞くと一時間の餘も待たなければなるまいと言ふ。で案内されて、まだ新規に始めたばかりの旅舍《やどや》へ行つて、若い慣れない内儀さんに晝飯の仕度を頼んだ。
 全く知らない生活を營む素朴な人々の中に、一時間ばかり居た。吾儕は草鞋穿のまゝ、廣い庭の
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