内に腰掛けて食つた。この宿の内儀さんは未だ處女《むすめ》らしいところのある人で、爐邊《ろばた》で吾儕の爲に海苔を炙つた。下女は油差を見るやうな銅《あか》の道具へ湯を入れて出した。こゝの豆腐の露もウマかつた。
汽船を待つ爲に、艀のあるところへ行つた。其時は男盛りの漁夫《れふし》と船頭親子と一緒だつた。鰹の取れる頃には、其邊は人で埋まるとか、其日は闃寂《しんかん》としたもので、蝦網などが干してあつて、二三の隱居が暢氣に網を補綴《つくろ》つて居た。やがて艀が出た。船頭は斷崖の下に添ふて右に燈臺の見える海の方へ漕いだ。海は斑に見えた。藻のないところだけ透澄《すきとほ》るやうに青かつた。強い、若い、とは言へ※[#「女+無」、第4水準2−5−80]《ひきつ》けるやうに美しい女同志が、赤い脛巾《はゞき》を當てゝ、吾儕の側を勇ましさうに漕いで通つた。それは榮螺《さゞゑ》を取りに行つて歸つて來た舟だつた。丁度駿河灣の方から進んで來た汽船が、左の高い岩の上に飜る旗を目掛けて入つて來て、帆船の一艘碇泊して居るあたりで止つた。吾儕は一緒に成つた漁夫と共に、この汽船へ移つた。A君は船が大嫌ひだ。醉はなければ好いが、と思つて皆な心配した。
間もなく船は石室崎《いらうざき》の燈臺を離れた。最初の中は甲板の上もめづらしかつた。吾儕は連に成つた漁夫から、島々の説明を聞いた。神子元島《みこもとじま》、神津島《かうづじま》、大島、其他島々の形を區別することが出來るやうに成つた。吾儕はまた風の寒い甲板の上をあちこちと歩いて、船の構造を見、勇ましさうな海員の生活を想像した。しかし、それは最初の中だけのことで、次第に物憂い動搖を感じた。船は魚を積む爲に港々へ寄つたが、處によると長く手間が取れた。吾儕《われ/\》は其間、空しく不愉快に待つて居た。海から見た陸《をか》は、陸から海を見たほどの變化も無かつた。
小稻《こいな》といふ處を通つた時、海から舟で通ふ洞《ほらあな》があつた。こゝへ見物に來た男が、細君だけ置いて、五百圓|懷中《ふところ》に入れたまゝ舟から落ちたといふ。是は往きに聞いた話だ。あの洋妾《らしやめん》上りの老婆《ばあさん》とは違つて、金はあつても壽命のない男だと見える。吾儕は斯の不幸な亭主の沈んで居るといふ洞を望んで通つた。
日暮に近く下田の港へ入つた。幸にA君は醉ひもしなかつた。吾儕は艀を待つに長くかゝつた。この汽船の會計らしい人は自分の室の戸を開けて、小さな植木鉢などの飾つてある机の前で丁寧に髮を撫でつけ、鞄を抱いて、それから別の艀へ移つた。甲板の上には汚れた服を着た船員が集つて、船の中で買食でもする外に歡樂《たのしみ》も無いやうな、ツマラなさうな顏付をして、上陸する人達を可羨《うらやま》しげに眺めて居た。漸く艀が來た。吾儕も陸へ急いだ。
下田の宿では夕飯の用意をして吾儕《われ/\》の歸りを待つて居た。其晩、吾儕は親類や友達へ宛てゝ紀念の繪葉書を書いた。天城を越したら送れと言つたY君を始め、信州のT君へは、K君と私と連名で書いた。旅の徒然《つれ/″\》に土地の按摩を頼んだ。温暖《あたたか》い雨の降る音がして來た。
早く起きた。雨は夜のうちに止んで、濕つた家々の屋根から朝餐《あさげ》の煙の白く登るのが見えた。音一つしなかつた。眠るやうに靜かだ。
「想像と實際に來て見たとは、斯うも違ふかナア。」とK君は下田の朝を眺めながら言つた。「まあ、僕の知つた限りでは、酒田に近い――酒田よりもうすこし纏まつてるかナ。」
「そんなに淫靡な處だとも思へないぢやないか。」と私も眺めて、「船着の町で、他《よそ》から來る人を大切にして、風俗を固守してる――それ以上は解らん。」
「斯樣《こん》な宿ぢや解らないサ。」とK君は笑つた。「料理屋へでも行つて飮食《のみくひ》して見なけりや――僕はよく左樣《さう》思ふよ、其土地土地の色は彼樣《あゝ》いふ場所へ行つて見ると、一番よく出てる。」
斯う二人で話して居ると、やがてA君とM君もそこへ一緒に成つた。吾儕はこの下田を他の種々《いろ/\》な都會に比較して見た。
「西京が斯ういふ町の代表者だ。」とM君は言つた。
「保守的だから奔放は無いサ。」
とまたM君が言つた。M君はそこまで話を持つて行かなければ承知しなかつた。
朝飯《あさはん》の後、伊東へ向けてこの宿を發つた。是非復た來たい。この次に來る時は大島まで行きたい、と互に言ひ合つた。内儀さんや娘は出て吾儕を見送つた。下女は艀の出るところまで手荷物を持つて隨いて來た。
間もなく吾儕は伊東行の汽船の中にあつた。この汽船は長津呂から下田まで乘つたと同じ型だつた。大小の帆船、荷舟、小舟、舊い修繕中の舟、其他種々雜多な型の舟、あるひは碇泊して居る舟、あるひは動いて居る舟――これらのものは
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