つ》をつけて行《ゆ》く時《とき》はなか/\骨《ほね》が折《を》れますが、一|日《にち》の仕事《しごと》をすまして山道《やまみち》を歸《かへ》つて來《く》るのは樂《たのし》みなものですよ。』
さう馬《うま》が言《い》つて、さも自慢《じまん》さうに首《くび》について居《ゐ》る鈴《すゞ》を鳴《な》らして見《み》せました。父《とう》さんのお家《うち》の前《まへ》は木曾街道《きそかいだう》と言《い》つて、鐵道《てつだう》も汽車《きしや》もない時分《じぶん》にはみんなその道《みち》を歩《ある》いて通《とほ》りました。高《たか》い山《やま》の上《うへ》でおまけに坂道《さかみち》の多《おほ》い所《ところ》ですから荷物《にもつ》はこの通《とほ》り馬《うま》が運《はこ》びました。どうかすると五|匹《ひき》も六|匹《ぴき》も荷物《にもつ》をつけた馬《うま》が續《つゞ》いて父《とう》さんのお家《うち》の前《まへ》を通《とほ》ることもありました。男《をとこ》や女《をんな》の旅人《たびびと》を乘《の》せた馬《うま》が馬方《うまかた》に引《ひ》かれて通《とほ》ることもありました。父《とう》さんの聲《こゑ》を掛《か》けたのは、近所《きんじよ》に飼《か》はれて居《ゐ》る馬《うま》で、毎日々々《まいにち/\》隣村《となりむら》の方《はう》へ荷物《にもつ》を運《はこ》ぶのがこの馬《うま》の役目《やくめ》でした。
馬《うま》が自分《じぶん》のお家《うち》へ歸《かへ》つた時分《じぶん》に父《とう》さんはよく馳《か》け出《だ》して行《い》つて見《み》ました。
『御苦勞《ごくらう》。御苦勞《ごくらう》。』
と馬方《うまかた》は馬《うま》を褒《ほ》めまして、馬《うま》の脊中《せなか》にある鞍《くら》をはづしてやつたり馬《うま》の顏《かほ》を撫《な》でゝやつたりしました。それから馬方《うまかた》は大《おほ》きな盥《たらひ》を持《も》つて來《き》まして、馬《うま》に行水《ぎやうずゐ》をつかはせました。
『どうよ。どうよ。』
と馬方《うまかた》が言《い》ひますと、馬《うま》は片足《かたあし》づゝ盥《たらひ》の中《なか》へ入《い》れます。馬《うま》の行水《ぎやうずゐ》は藁《わら》でもつて、びつしより汗《あせ》になつた身體《からだ》を流《なが》してやるのです。父《とう》さんは馬方《うまかた》の家《うち》の前《まへ》に立《た》つて、樂《たのし》さうに行水《ぎやうずゐ》をつかつて貰《もら》つて居《ゐ》る馬《うま》を眺《なが》めました。そして、馬《うま》の行水《ぎやうずゐ》の始《はじ》まる時分《じぶん》には山《やま》の中《なか》の村《むら》へ夕方《ゆふがた》の來《く》ることを知《し》りました。それに氣《き》がついては、父《とう》さんは自分《じぶん》のお家《うち》の方《はう》へ歸《かへ》りませうと思《おも》ひました。
六 奧山《おくやま》に燃《も》える火《ひ》
父《とう》さんの田舍《ゐなか》では、夕方《ゆふがた》になると夜鷹《よたか》といふ鳥《とり》が空《そら》を飛《と》[#ルビの「と」は底本では「とび」]びました。その夜鷹《よたか》の出《で》る時分《じぶん》には、蝙蝠《かうもり》までが一|緒《しよ》に舞《ま》ひ出《だ》しました。
『蝙蝠《かうもり》――來《こ》い、來《こ》い。』
と言《い》ひながら、父《とう》さんは蝙蝠《かうもり》と一|緒《しよ》になつて飛《と》び歩《ある》いたものです。どうかすると狐火《きつねび》といふものが燃《も》えるのも、村《むら》の夕方《ゆふがた》でした。
『御覽《ごらん》狐火《きつねび》が燃《も》えて居《ゐ》ますよ。』
と村《むら》の人《ひと》に言《い》はれて、父《とう》さんはお家《うち》の前《まへ》からそのチラ/\と燃《も》える青《あを》い狐火《きつねび》を遠《とほ》い山《やま》の向《むか》ふの方《はう》に望《のぞ》んだこともありました。あれは狐《きつね》が松明《たいまつ》を振《ふ》るのだとも言《い》ひましたし、奧山《おくやま》の木《き》の根《ね》が腐《くさ》つて光《ひか》るのを狐《きつね》が口《くち》にくはへて振《ふ》るのだとも言《い》ひました。父《とう》さんは子供《こども》で、なんにも知《し》りませんでしたが、あの青《あを》い美《うつく》しい不思議《ふしぎ》な狐火《きつねび》を夢《ゆめ》のやうに思《おも》ひました。父《とう》さんの生《うま》れたところは、それほど深《ふか》い山《やま》の中《なか》でした。
七 水《みづ》の話《はなし》
父《とう》さんの田舍《ゐなか》は木曾街道《きそかいだう》の中《なか》の馬籠峠《うまかごたうげ》といふところで、信濃《しなの》の國《くに》の一|番《ばん》西《にし》の端《はし》にあたつて居《ゐ》ました。お正月《しやうぐわつ》のお飾《かざ》りを片付《かたづ》ける時分《じぶん》には、村中《むらぢう》の門松《かどまつ》や注連繩《しめなは》などを村《むら》のはづれへ持《も》つて行《い》つて、一|緒《しよ》にして燒《や》きました。村《むら》の人《ひと》はめい/\お餅《もち》を竿《さを》の先《さき》にさしてその火《ひ》で燒《や》いて食《た》べたり、子供《こども》のお清書《せいしよ》を煙《けむり》の中《なか》に投《な》げこんで、高《たか》く空《そら》にあがつて行《ゆ》く紙《かみ》の片《きれ》を眺《なが》めたりしました。火《ひ》の氣《け》と、煙《けむり》とで、お清書《せいしよ》が高《たか》くあがれば、それを書《か》いたものの手《て》があがると言《い》ひました。松《まつ》の燃《も》える煙《けむり》と一|緒《しよ》になつてお清書《せいしよ》が高《たか》く、高《たか》くあがつて行《ゆ》くのは丁度《ちやうど》凧《たこ》でもあげるのを見《み》るやうでした。その正月《しやうぐわつ》のお飾《かざり》を集《あつ》めて燒《や》く村《むら》のはづれまで行《ゆ》きますと、その邊《へん》にはびつくりするほど大《おほ》きな岩《いは》や石《いし》が田圃《たんぼ》の間《あひだ》に見《み》えました。そこからはもう信濃《しなの》と美濃《みの》の國境《くにさかひ》に近《ちか》いのです。父《とう》さんの田舍《ゐなか》は信濃《しなの》の山國《やまぐに》から平《たひら》な野原《のはら》の多《おほ》い美濃《みの》の方《はう》へ降《おり》て行《ゆ》く峠《たうげ》の一|番《ばん》上《うへ》のところにあつたのです。
さういふ岩《いは》や石《いし》の多《おほ》い峠《たうげ》の上《うへ》に出來《でき》たお城《しろ》のやうな村《むら》ですから、まるで梯子段《はしごだん》の上《うへ》にお家《うち》があるやうに、石垣《いしがき》をきづいては一|軒《けん》づゝお家《うち》が建《た》てゝありました。どちらを向《む》いても坂《さか》ばかりでした。父《とう》さんがお隣《となり》の酒屋《さかや》の方《はう》へ上《のぼ》つて行《ゆ》くにも坂《さか》、お忠《ちう》婆《ばあ》さんといふ人《ひと》の住《す》む家《うち》の方《はう》へ降《お》りて行《ゆ》くにも坂《さか》でした。
この田舍《ゐなか》は水《みづ》に不自由《ふじいう》なところでした。谷《たに》の底《そこ》の方《はう》まで行《ゆ》けば山《やま》の間《あひだ》を流《なが》れて來《く》る谷川《たにがは》がなくもありませんが、人家《じんか》の近《ちか》くにはそれもありませんでした。そこで峠《たうげ》の方《はう》から清水《しみづ》を引《ひ》いて、それを溜《た》める塲所《ばしよ》が造《つく》つてあつたのです。何《なん》といふ好《よ》い清水《しみづ》が長《なが》い樋《とひ》を通《とほ》つて、どん/\流《なが》れて來《き》ましたらう。父《とう》さんが輪《わ》でも廻《まは》しながら遊《あそ》びに行《い》つて見《み》ますと、流《なが》れて來《き》た水《みづ》が大《おほ》きな箱《はこ》の中《なか》に澄《す》んで溜《た》まつて居《ゐ》ます。その水《みづ》が箱《はこ》から溢《あふ》れて村《むら》の下《しも》の方《はう》へ流《なが》れて行《ゆ》きます。天秤棒《てんびんぼう》で兩方《りやうはう》の肩《かた》に手桶《てをけ》をかついだ近所《きんじよ》の女達《をんなたち》がそこへ水汲《みづくみ》に集《あつ》まつて來《き》ます。水《みづ》の不自由《ふじいう》なところに生《うま》れた父《とう》さんは特別《とくべつ》にその清水《しみづ》のあるところを樂《たのし》く思《おも》ひました。みんなが威勢《ゐせい》よく水《みづ》を汲《く》んだり擔《かつ》いだりするのを見《み》るのも樂《たのし》く思《おも》ひました。そればかりではありません。父《とう》さんが子供《こども》の時分《じぶん》から水《みづ》といふものを大切《たいせつ》に思《おも》ひ、ずつと大《おほ》きくなつても水《みづ》の流《なが》れて居《ゐ》るのを見《み》るのが好《す》きで、水《みづ》の音《おと》を聞《き》くのも好《す》きなのは、斯《か》うして水《みづ》に不自由《ふじいう》な田舍《ゐなか》に生《うま》れたからだと思《おも》ひます。
父《とう》さんのお家《うち》には井戸《ゐど》が掘《ほ》つてありました。その井戸《ゐど》は柄杓《ひしやく》で水《みづ》の汲《く》めるやうな淺《あさ》い井戸《ゐど》ではありません。釣《つ》いても、釣《つ》いても、なか/\釣瓶《つるべ》の上《あが》つて來《こ》ないやうな、深《ふか》い/\井戸《ゐど》でした。
父《とう》さんの祖母《おばあ》さんの隱居所《いんきよじよ》になつて居《ゐ》た二|階《かい》と土藏《どざう》の間《あひだ》を通《とほ》りぬけて、裏《うら》の木小屋《きごや》の方《はう》へ降《おり》て行《ゆ》く石段《いしだん》の横《よこ》に、その井戸《ゐど》がありました。そこも父《とう》さんの好《す》きなところで、家《うち》の人《ひと》が手桶《てをけ》をかついで來《き》たり、水《みづ》を汲《く》んだりする側《そば》に立《た》つて、それを見る《み》のを樂《たのし》く思《おも》ひました。父《とう》さんの幼少《ちひさ》な時分《じぶん》にはお家《うち》にお雛《ひな》といふ女《をんな》が奉公《ほうこう》して居《ゐ》まして、半分《はんぶん》乳母《うば》のやうに父《とう》さんを負《おぶ》つたり抱《だ》いたりして呉《く》れたことを覺《おぼ》えて居《ゐ》ます。そのお雛《ひな》は井戸《ゐど》から石段《いしだん》を上《あが》り、土藏《どざう》の横《よこ》を通《とほ》り、桑畠《くはばたけ》の間《あひだ》を通《とほ》つて、お家《うち》の臺所《だいどころ》までづゝ水《みづ》を運《はこ》びました。
八 凧《たこ》
山《やま》の中《なか》の田舍《ゐなか》では、近所《きんじよ》に玩具《おもちや》を賣《う》る店《みせ》もありません。村《むら》の子供《こども》は凧《たこ》なぞも自分《じぶん》で造《つく》りました。
父《とう》さんはまだ幼少《ちひさ》かつたものですから、お家《うち》の爺《ぢい》やに手傳《てつだ》つて貰《もら》ひまして、造作《ざうさ》なく出來《でき》る凧《たこ》を造《つく》りました。紙《かみ》と絲《いと》とはお祖母《ばあ》さんが下《くだ》さる、骨《ほね》の竹《たけ》は裏《うら》の竹籔《たけやぶ》から爺《ぢい》やが切《き》つて來《き》て呉《く》れる、何《なに》もかもお家《うち》にある物《もの》で間《ま》に合《あ》ひました。爺《ぢい》やが青《あを》い竹《たけ》を細《ほそ》く削《けづ》つて呉《く》れますと、それに父《とう》さんが御飯粒《ごはんつぶ》で紙《かみ》を張《は》りつけまして、鯣《するめ》のかたちの凧《たこ》を造《つく》りました。みんなのするやうに、凧《たこ》の尾《を》には矢張《やはり》紙《かみ》を長《なが》く切《き》つてさげました。
末子《すゑこ》は學校《がくかう》の先生《せんせい》[#ルビの「せんせい」は底本では「せうせい」]から手工《しゆこう》を習《なら》ひませう、自分《じぶん》で紙《かみ》の箱《はこ》
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