します。お前達《まへたち》の祖父《おぢい》さんでも、祖母《おばあ》さんでも、みんなその言葉《ことば》の中《なか》に生《い》きていらつしやるやうな氣《き》がします。
二七 お百姓《ひやくしやう》の苗字《めうじ》
父《とう》さんの田舍《ゐなか》の方《はう》には働《はたら》くことの好《す》きなお百姓《ひやくしやう》が住《す》んで居《ゐ》ます。今《いま》でこそあの人達《ひとたち》に苗字《めうじ》の無《な》い人《ひと》はありませんが、昔《むかし》は庄吉《しやうきち》とか、春吉《はるきち》とかの名前《なまへ》ばかりで、苗字《めうじ》の無《な》い人達《ひとたち》が澤山《たくさん》あつたさうです。明治《めいぢ》のはじめを御維新《ごゐつしん》の時《とき》と言《い》ひまして、あの御維新《ごゐつしん》の時《とき》から、どんなお百姓《ひやくしやう》でも立派《りつぱ》な苗字《めうじ》をつけることに成《な》つたさうです。
父《とう》さんのお家《うち》にも出入《でいり》のお百姓《ひやくしやう》がありまして、お餅《もち》をつくとか、お茶《ちや》をつくるとかいふ日《ひ》には、屹度《きつと》お手傳《てつだ》ひに來《き》て呉《く》れました。あの人達《ひとたち》はお前達《まへたち》の祖父《おぢい》さんのことを『お師匠《ししやう》さま、お師匠《ししやう》さま』と呼《よ》んで居《ゐ》ました。あの人達《ひとたち》が苗字《めうじ》をつける時《とき》のことを今《いま》から思《おも》ひますと、
『お師匠《ししやう》さま、孫子《まごこ》に傳《つた》はることでございますから、どうかまあ私共《わたしども》にも好《よ》ささうな苗字《めうじ》を一つお願《ねが》ひ申《まを》します。』
斯《か》うもあつたらうかと思《おも》ひます。そして、大脇《おほわき》[#ルビの「おほわき」は底本では「おはわき」]の脇《わき》の字《じ》を分《わ》けて貰《もら》ふとか、蜂谷《はちや》の谷《や》の字《じ》を分《わ》けて貰《もら》ふとかして、いろ/\な苗字《めうじ》が村《むら》にふえて行《い》つたらうかと思《おも》ひます。
二八 狐《きつね》の身上話《みのうへばなし》
お稻荷《いなり》さまは五穀《ごこく》の神《かみ》を祀《まつ》つたものですとか。五穀《ごこく》とは何《なん》と何《なん》でせう。米《こめ》に、麥《むぎ》に、粟《あは》に、黍《きび》に、それから豆《まめ》です。粟《あは》は粟餅《あはもち》の粟《あは》、黍《きび》はお前達《まへたち》のお馴染《なじみ》な桃太郎《もゝたらう》が腰《こし》にさげて居《ゐ》る黍團子《きびだんご》の黍《きび》です。父《とう》さんのお家《うち》の裏《うら》にも、斯《こ》のお百姓《ひやくしやう》の神樣《かみさま》が祀《まつ》つてありました。赤《あか》い鳥居《とりゐ》の奧《おく》にある小《ちひ》さな社《やしろ》がそれです。二|月《ぐわつ》初午《はつうま》の日《ひ》には、お家《うち》の爺《ぢい》やが大《おほ》きな太鼓《たいこ》を持出《もちだ》して、その社《やしろ》の側《わき》の櫻《さくら》の枝《えだ》の木《き》に掛《か》けますと、そこへ近所《きんじよ》の子供《こども》が集《あつ》まりました。父《とう》さんもその太鼓《たいこ》を叩《たゝ》くのを樂《たのし》みにしたものです。
お前達《まへたち》はあの繪馬《ゑま》を知《し》つて居《ゐ》ますか。馬《うま》の繪《ゑ》をかいた小《ちひ》さな額《がく》が諸方《はう/″\》の社《やしろ》に掛《か》けてあるのを知《し》つて居《ゐ》ますか。あの額《がく》の中《なか》には『奉納《ほうなふ》』といふ文字《もじ》と、それを進《あ》げた人《ひと》の生《うま》れた年《とし》なぞが書《か》いてあるのに氣《き》がつきましたか。父《とう》さんのお家《うち》の裏《うら》に祀《まつ》つてあるお稻荷《いなり》さまの社《やしろ》にも、あの繪馬《ゑま》がいくつも掛《かゝ》つて居《ゐ》ました。それから、白《しろ》い狐《きつね》の姿《すがた》をあらはした置物《おきもの》も置《お》いてありました。その白狐《しろぎつね》はあたりまへの狐《きつね》でなくて、寶珠《はうじゆ》の玉《たま》を口《くち》にくはへて居《ゐ》ました。
『お前《まへ》さんがお稻荷《いなり》さまですか。』
と父《とう》さんがその狐《きつね》にきいて見《み》ました。さうしましたら白狐《しろぎつね》の答《こた》へるには、
『どうしまして。私《わたし》はお稻荷《いなり》さまの使《つか》ひですよ。この社《やしろ》の番人《ばんにん》ですよ。私《わたし》もこれで若《わか》い時分《じぶん》には隨分《ずゐぶん》いたずらな狐《きつね》でして、諸方《はう/″\》の畠《はたけ》を荒《あら》しました。一|體《たい》、私《わたし
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