入口《いりくち》に着《つ》くには、六曲峠《ろくきよくたうげ》といふ峠《たうげ》を越《こ》して來《こ》なければなりません。そこが信濃《しなの》と美濃《みの》の國境《くにざかひ》で、父《とう》さんの村《むら》のはづれに當《あた》つて居《ゐ》ます。馬籠《まごめ》の驛《えき》まで來《く》れば御嶽山《おんたけさん》はもう遠《とほ》くはない、そのよろこびが皆《みんな》の胸《むね》にあるのです。あの白《しろ》い着物《きもの》に、白《しろ》い鉢巻《はちまき》をした山登《やまのぼ》りの人達《ひとたち》が、腰《こし》にさげた鈴《りん》をちりん/\鳴《な》らしながら多勢《おほぜい》揃《そろ》つて通《とほ》るのは、勇《いさま》しいものでした。

   二三 芭蕉翁《ばせをおう》の石碑《せきひ》

お前達《まへたち》は芭蕉翁《ばせをおう》の名《な》を聞《き》いたことが有《あ》りませう。あの芭蕉翁《ばせをおう》の木曾《きそ》で讀《よ》んだ發句《ほつく》が石《いし》に彫《ほ》りつけてあります。その古《ふる》い石碑《せきひ》が馬籠《まごめ》の村《むら》はづれに建《た》てゝあります。美濃《みの》の國境《くにざかひ》に近《ちか》いところに、それがあります。
『朝《あさ》を思《おも》ひ、また夕《ゆふ》を思《おも》ふべし。』
と芭蕉翁《ばせをおう》は教《をし》へた人《ひと》です。

   二四 お百草《ひやくさう》

御嶽山《おんたけさん》の方《はう》から歸《かへ》る人達《ひとたち》は、お百草《ひやくさう》といふ藥《くすり》をよく土産《みやげ》に持《も》つて來《き》ました。お百草《ひやくさう》は、あの高《たか》い山《やま》の上《うへ》で採《と》れるいろ/\な草《くさ》の根《ね》から製《せい》した練藥《ねりぐすり》で、それを竹《たけ》の皮《かは》の上《うへ》に延《の》べてあるのです。苦《にが》い/\藥《くすり》でしたが、お腹《なか》の痛《いた》い時《とき》なぞにそれを飮《の》むとすぐなほりました。お藥《くすり》はあんな高《たか》い山《やま》の土《つち》の中《なか》にも藏《しま》つてあるのですね。

   二五 檜木笠《ひのきかさ》

麥藁《むぎわら》でさへ帽子《ばうし》が出來《でき》るのに、檜木《ひのき》で笠《かさ》が造《つく》れるのは不思議《ふしぎ》でもありません。
木曾《きそ》は檜木《ひのき》[#「檜木」は底本では「榎木」]の名所《めいしよ》ですから、あの木《き》を薄《うす》い板《いた》に削《けづ》りまして、笠《かさ》に編《あ》んで冠《かぶ》ります。その笠《かさ》の新《あたら》しいのは、好《い》い檜木《ひのき》の香氣《にほひ》がします。木曾《きそ》の檜木《ひのき》は[#「は」は底本では「を」]材木《ざいもく》として立派《りつぱ》なばかりでなく、赤味《あかみ》のある厚《あつ》い木《き》の皮《かは》は屋根板《やねいた》の代《かは》りにもなります。まあ、あの一ト擁《かゝ》へも二擁《ふたかゝ》へもあるやうな檜木《ひのき》の側《そば》へ、お前達《まへたち》を連《つ》れて行《い》つて見《み》せたい。

   二六 ふるさとの言葉《ことば》

山《やま》や林《はやし》は父《とう》さんのふるさとですと、お前達《まへたち》にお話《はなし》しましたらう。山《やま》や林《はやし》ばかりでなく、言葉《ことば》も父《とう》さんのふるさとです。邊鄙《へんぴ》な山《やま》の中《なか》の村《むら》ですから、言葉《ことば》のなまりも鄙《ひな》びては居《ゐ》ますが、人《ひと》の名前《なまへ》の呼《よ》び方《かた》からして馬籠《まごめ》は馬籠《まごめ》らしいところが有《あ》ります。たとへば、末子《すゑこ》のやうなちひさな女《をんな》の子《こ》を呼《よ》ぶにも、
『末《すゑ》さま。』
と言《い》つたり、もつと親《した》しい間柄《あひだがら》で呼《よ》ぶ時《とき》には、
『末《すゑ》さ』
と言《い》つたりしまして、鄙《ひな》びた言葉《ことば》の中《なか》にも何處《どこ》か優《やさ》しいところが無《な》いでもありません。
父《とう》さんの田舍《ゐなか》には『どうねき』などといふ言葉《ことば》もあります。もう仕末《しまつ》におへないやうな人《ひと》のことを『どうねき』と言《い》ひます。こんな言葉《ことば》は木曾《きそ》にだけ有《あ》つて、他《ほか》の土地《とち》には無《な》いのだらうかと思《おも》ひます。それから、『わやく』といふやうな言葉《ことば》もあります。『いたずらな子供《こども》』といふところを『わやくな子供《こども》』などゝ言《い》ひます。
ふるさとの言葉《ことば》はこひしい。それを聞《き》くと、父《とう》さんは自分《じぶん》の子供《こども》の時分《じぶん》に歸《かへ》つて行《ゆ》くやうな氣《き》が
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