、おまけにその大《おほ》きな榎木《えのき》の下《した》で、『丁度好《ちやうどい》い時《とき》。』まで覺《おぼ》えて歸《かへ》つて來《き》ました。
 
   一九 木曾《きそ》の蠅《はい》

木曾《きそ》は蠅《はい》の多《おほ》いところです。
木曾《きそ》には毎年《まいとし》馬市《うまいち》が立《た》つくらゐに、諸方《はう/″\》で馬《うま》を飼《か》ひますから、それで蠅《はい》が多《おほ》いといひます。
蠅《はい》は何《なん》にでも行《い》つて取《と》りつきます。荷物《にもつ》をつけて通《とほ》る馬《うま》にも取《と》りつけば、旅人《たびびと》の着物《きもの》にも取《と》りつきます。蠅《はい》は誰《たれ》とでも直《す》ぐ懇意《こんい》になりますが、そのかはり誰《たれ》にでもうるさがられます。こんなうるさい蠅《はい》でも、道連《みちづ》れとなれば懐《なつ》かしく思《おも》はれたかして、木曾《きそ》の蠅《はい》のことを發句《ほつく》に讀《よ》んだ昔《むかし》の旅人《たびゞと》もありましたつけ。

   二○ 蚋《ぶよ》

似《に》て、違《ちが》ふもの――蠅《はい》と蚋《ぶよ》。蠅《はい》はうるさがられ、蚋《ぶよ》は恐《こは》がられて居《ゐ》ます。蚋《ぶよ》は人《ひと》をも馬《うま》をも刺《さ》します。あの長《なが》くて丈夫《ぢやうぶ》な馬《うま》の尻尾《しつぽ》の房々《ふさ/\》とした毛《け》は、蚋《ぶよ》を追《お》ひ拂ふ《はら》のに役《やく》に立《た》つのです。父《とう》さんが幼少《ちひさ》な時分《じぶん》に晝寢《ひるね》をして居《ゐ》ますと、どうかするとこの蚋《ぶよ》に食《く》はれることが有《あ》りました。その度《たび》に、お前達《まへたち》の祖父《おぢい》さんが大《おほ》きな掌《てのひら》で、蚋《ぶよ》を打《う》ち懲《こら》して呉《く》れました。

   二一 木曾馬《きそうま》

木曾《きそ》のやうに山坂《やまさか》の多《おほ》いところには、その土地《とち》に適《てき》した馬《うま》があります。いくら體格《たいかく》の好《い》い立派《りつぱ》な馬《うま》でも、平地《へいち》にばかり飼《か》はれた動物《どうぶつ》では、木曾《きそ》のやうな土地《とち》には適《てき》しません。そこで、石《いし》ころの多《おほ》い坂路《さかみち》を歩《ある》いても疲《つか》れないやうな強《つよ》い脚《あし》の力《ちから》が、木曾生《きそうま》れの馬《うま》には自然《しぜん》と具《そな》はつて居《ゐ》るのです。
木曾馬《きそうま》は小《ちひさ》いが、足腰《あしこし》が丈夫《ぢやうぶ》で、よく働《はたら》くと言《い》つて、それを買《か》ひに來《く》る博勞《ばくらう》が毎年《まいねん》諸國《しよこく》から集《あつ》まります。博勞《ばくらう》とは馬《うま》の賣買《うりかひ》を商賣《しやうばい》にする人《ひと》のことです。木曾《きそ》の山地《さんち》に育《そだ》つた眼付《めつき》の可愛《かあい》らしい動物《どうぶつ》がその博勞《ばくらう》に引《ひ》かれながら、諸國《しよこく》へ働《はたら》きに出《で》るのです。

   二二 御嶽參《おんたけまゐ》り

『チリン/\。チリン/\。』
山《やま》が夏《なつ》らしくなると、鈴《すゞ》の音《おと》が聞《きこ》えるやうに成《な》ります。御嶽山《おんたけさん》に登《のぼ》らうとする人達《ひとたち》が幾組《いくくみ》となく父さんのお家《うち》の前《まへ》を通《とほ》るのです。馬《うま》に乘《の》るか、籠《かご》に乘《の》るか、さもなければ歩《ある》いて旅《たび》をした以前《いぜん》の木曾街道《きそかいだう》の時分《じぶん》には、父《とう》さんの生《うま》れた神坂村《みさかむら》も驛《えき》の名《な》を馬籠《まごめ》と言《い》ひました。汽車《きしや》や電車《でんしや》の着《つ》くところが今日《こんにち》のステエシヨンなら、馬《うま》や籠《かご》の着《つ》いた父《とう》さんの村《むら》は昔《むかし》の木曾街道《きそかいだう》時分《じぶん》のステエシヨンのあつたところです。ほら、何々《なに/\》の驛《えき》といふことをよく言《い》ふでは有《あ》りませんか。木曾《きそ》の山《やま》の中《なか》にあつた小《ちひ》さな馬籠驛《まごめえき》でも、言葉《ことば》の意味《いみ》に變《かは》りは無《な》いのです。丁度《ちやうど》、お隣《とな》りで美濃《みの》の國《くに》の方《はう》から木曽路《きそぢ》へ入《はひ》らうとする旅人《たびびと》のためには、一番《いちばん》最初《さいしよ》の入口《いりぐち》のステエシヨンにあたつて居《ゐ》たのが馬籠驛《まごめえき》です。
御嶽參《おんたけまゐ》りが西《にし》の方《はう》から斯《こ》の木曾《きそ》の
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