きやう》へ出《で》る時分《じぶん》には、鐵道《てつだう》のない頃《ころ》ですから、是非《ぜひ》とも木曽路《きそぢ》を歩《ある》かなければ成《な》りませんでした。もう好《い》い加減《かげん》歩《ある》いて行《い》つて、谷《たに》がお仕舞《しまひ》になつたかと思《おも》ふ時分《じぶん》には、また向《むか》ふの方《はう》の谷間《たにま》の板屋根《いたやね》から煙《けむり》の立《た》ち登《のぼ》るのが見《み》えました。さういふ煙《けむり》の見《み》えるところにかぎつて、旅人《たびびと》の腰掛《こしか》けて休《やす》んで行《ゆ》く休茶屋《やすみぢやや》がありました。
『御休處《おんやすみどころ》』
として、白《しろ》いところに黒《くろ》い太《ふと》い字《じ》で書《か》いてある看板《かんばん》は、父《とう》さん達《たち》にも寄《よ》つて休《やす》んで行《ゆ》けと言《い》ふやうに見《み》えました。さういふ休茶屋《やすみぢやや》には、きまりで『御嶽講《おんたけかう》』の文字《もじ》を染《そ》めぬいた布《きれ》がいくつも軒下《のきした》に釣《つ》るしてありました。
樂《たの》しい御休處《おんやすみどころ》。父《とう》さんが祖母《おばあ》さんから貰《もら》つて來《き》た金米糖《こんぺいたう》なぞを小《ちひ》さな鞄《かばん》から取出《とりだ》すのも、その御休處《おんやすみどころ》でした。塲處《ばしよ》によりましては、冷《つめた》い清水《しみづ》が樋《とひ》をつたつて休茶屋《やすみぢやや》のすぐ側《わき》へ流《なが》れて來《き》て居《ゐ》ます。さういふ清水《しみづ》はいくらでも父《とう》さんに飮《の》ませて呉《く》れました。

   六四 寢覺《ねざめ》の蕎麥屋《そばや》

寢覺《ねざめ》といふところには名高《なだか》い蕎麥屋《そばや》がありました。
木曽路《きそぢ》を通《とほ》るもので、その蕎麥屋《そばや》を知《し》らないものはないと、伯父《をぢ》さんが父《とう》さん達《たち》に話《はな》して呉《く》れました。そこは蕎麥屋《そばや》とも思《おも》へないやうな家《うち》でした。多勢《おほぜい》の旅人《たびびと》が腰掛《こしか》けて、めづらしさうにお蕎麥《そば》のおかはりをして居《ゐ》ました。伯父《をぢ》さんは父《とう》さん達《たち》にも山《やま》のやうに盛《も》りあげたお蕎麥《そば》を奢《をご》りまして、草臥《くたぶ》れて行《ゆ》つた足《あし》を休《やす》ませて呉《く》れました。

   六五[#「五」は底本では「七」] 浦島太郎《うらしまたらう》の釣竿《つりざを》

寢覺《ねざめ》には、浦島太郎《うらしまたらう》の釣竿《つりざを》といふものが有《あ》りました。それも伯父《をぢ》さんの話《はな》して呉《く》れたことですが、浦島太郎《うらしまたらう》の釣《つり》をしたといふ岩《いは》もありました。それから、あの浦島太郎《うらしまたらう》が龍宮《りうぐう》から歸《かへ》つて來《き》まして自分《じぶん》の姿《すがた》をうつして見《み》たといふ池《いけ》もありました。
木曾《きそ》の人《ひと》は昔《むかし》からお伽話《とぎばなし》が好《す》きだつたと見《み》えますね。岩《いは》にも、池《いけ》にも、釣竿《つりざを》にも、こんなお伽話《とぎばなし》が殘《のこ》つて、それを昔《むかし》から言《い》ひ傳《つた》へて居《ゐ》ます。

   六六 棧橋《かけはし》の猿《さる》

『もし/\、お前《まへ》さんの背中《せなか》に負《しよ》つて居《ゐ》るのは何《なん》ですか。』
木曾《きそ》の棧橋《かけはし》といふところの休茶屋《やすみぢやや》に飼《か》つてあるお猿《さる》さんが、そんなことを父《とう》さんに尋ね《たづ》ねました。
父《とう》さんは小《ちひ》さな鞄《かばん》を風呂敷包《ふろしきづゝみ》にしまして、それを自分《じぶん》の背中《せなか》に負《しよ》つて居《ゐ》ましたから、
『お猿《さる》さん、これは祖母《おばあ》さんがおせんべつに呉《く》れてよこしたのです。途中《とちう》で退屈《たいくつ》した時《とき》におあがりと言《い》つて、祖母《おばあ》さんが呉《く》れてよこした金米糖《こんぺいたう》です。わたしはこれから東京《とうきやう》へ修業《しうげふ》に行《ゆ》くところですが、この棧橋《かけはし》まで來《く》るうちに、金米糖《こんぺいたう》も大分《だいぶ》すくなくなりました。』
とお猿《さる》さんに話《はな》して聞《き》かせました。
このお猿《さる》さんの飼《か》つてあるところは高《たか》い崖《がけ》の下《した》でした。橋《はし》の下《した》を流《なが》れる木曽川《きそがは》がよく見《み》えて、深《ふか》い山《やま》の中《なか》らしい、景色《けしき》の好《い》いところ
前へ 次へ
全43ページ中40ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング