》けました。この馬《うま》は背中《せなか》に荷物《にもつ》をつけて父《とう》さんのお家《うち》へ來《き》たこともある馬《うま》でした。
やがて父《とう》さんは伯父《をぢ》さんの後《あと》に附《つ》いて、めづらしい初旅《はつたび》に上《のぼ》りました。父《とう》さんが歩《ある》いて行《ゆ》く道《みち》を木曽路《きそぢ》とも、木曾街道《きそかいだう》ともいふ道《みち》でした。

   六一 初旅《はつたび》

『もし/\、お前《まへ》さんの草履《ざうり》の紐《ひも》が解《と》けて居《ゐ》ますよ。』
と路《みち》ばたに咲《さ》いて居《ゐ》た龍膽《りんだう》の花《はな》が父《とう》さんに聲《こゑ》を掛《か》けて呉《く》れました。龍膽《りんだう》は桔梗《ききやう》に似《に》た小《ちい》さな草花《くさばな》で、よく山道《やまみち》なぞに咲《さ》いて居《ゐ》るのを見《み》かけるものです。
父《とう》さんがその小《ちい》さな紫《むらさき》いろの花《はな》の前《まへ》で自分《じぶん》の草履《ざうり》の紐《ひも》を結《むす》ばうとして居《を》りますと、伯父《をぢ》さんは父《とう》さんの側《そば》へ來《き》て、腰《こし》を曲《こゞ》めて手傳《てつだ》つて呉《く》れました。慣《な》れない旅《たび》ですから、おまけに馬籠《まごめ》から隣村《となりむら》の妻籠《つまご》へ行《ゆ》く二|里《り》の間《あひだ》は石《いし》ころの多《おほ》い山道《やまみち》ですから、父《とう》さんの草履《ざうり》の紐《ひも》はよく解《と》けました。その度《たび》に伯父《をぢ》さんが足《あし》をとめては紐《ひも》を結《むす》んで呉《く》れました。

   六二 木曽川《きそがは》

隣村《となりむら》の妻籠《つまご》には、お前達《まへたち》の祖母《おばあ》[#「祖母」は底本では「祖毎」]さんの生《うま》れたお家《うち》がありました。妻籠《つまご》の祖父《おぢい》さんといふ人もまだ達者《たつしや》な時分《じぶん》で、父《とう》さん達《たち》をよろこんで迎《むか》へて呉《く》れました。そこで、初《はじめ》の日《ひ》は妻籠《つまご》に泊《とま》りまして翌朝《よくあさ》また伯父《をぢ》[#ルビの「をぢ」は底本では「おぢ」]さんに連《つ》れられて出掛《でか》けました。
妻籠《つまご》の吾妻橋《あづまばし》といふ橋《はし》の手前《てまへ》まで行《い》きますと、鶺鴒《せきれい》が飛《と》んで居《ゐ》ました。その鶺鴒《せきれい》はあつちの大《おほ》きな岩《いは》の上《うへ》[#ルビの「うへ」は底本では「う」]へ飛《と》んだり、こつちの大《おほ》きな岩《いは》の上《うへ》へ飛《と》んだりして、
『どうです。妻籠《つまご》には大《おほ》きな川《かは》があるでせう。』
と言《い》つて見《み》せました。
父《とう》さんも、そんな大《おほ》きな川《かは》を見《み》るのは初《はじ》めてでした。青《あを》い、どろんとした水《みづ》は渦《うづ》を卷《ま》いて、大《おほ》きな岩《いは》の間《あひだ》を流《なが》れて居《ゐ》ました。
『これが木曽川《きそがは》ですか。』
と父《とう》さんが尋《たづ》ねましたら、鶺鴒《せいきれ》は尻尾《しつぽ》を振《ふ》つて、
『いえ、これは蘭《あらゝぎ》の山奧《やまおく》の方《はう》から流《なが》れて來《く》る川《かは》です。木曽川《きそがは》へ入《はい》る川《かは》です。』
と教《をし》へて呉れました。
吾妻橋《あづまばし》の手前《てまへ》で見《み》た川《かは》が大《おほ》きいと思《おも》ひましたら、木曽川《きそがは》はそれよりも大《おほ》きな川《かは》でした。

   六三 御休處《おんやすみどころ》

何《なん》といふ深《ふか》い山《やま》や谷《たに》が父《とう》さんの行《ゆ》く先《さき》にありましたらう。父《とう》さんは木曽川《きそがは》の見《み》える谷間《たにあひ》について、林《はやし》の中《なか》を歩《ある》いて行《ゆ》くやうなものでした。どうかすると晝間《ひるま》でも暗《くら》いやうな檜木《ひのき》や杉《すぎ》のしん/\と生《は》えて居《ゐ》るところを通《とほ》ることもありました。あゝこれが三留野《みとめの》といふところか、これが須原《すはら》といふところか、と思《おも》ひまして、初《はじ》めて見《み》る村々《むら/\》が父《とう》さんにはめづらしく思《おも》はれました。何《なに》もかも父《とう》さんには初《はじ》めてゞした。高《たか》い山《やま》の上《うへ》の方《はう》から村《むら》はづれの街道《かいだう》のところまで押《お》し寄《よ》せて來《き》て居《ゐ》る黒《くろ》い岩《いは》だの石《いし》だのを見《み》るのも初《はじ》めてゞした。
父《とう》さんが東京《とう
前へ 次へ
全43ページ中39ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング