》つて、樂《たのし》さうに行水《ぎやうずゐ》をつかつて貰《もら》つて居《ゐ》る馬《うま》を眺《なが》めました。そして、馬《うま》の行水《ぎやうずゐ》の始《はじ》まる時分《じぶん》には山《やま》の中《なか》の村《むら》へ夕方《ゆふがた》の來《く》ることを知《し》りました。それに氣《き》がついては、父《とう》さんは自分《じぶん》のお家《うち》の方《はう》へ歸《かへ》りませうと思《おも》ひました。

   六 奧山《おくやま》に燃《も》える火《ひ》

父《とう》さんの田舍《ゐなか》では、夕方《ゆふがた》になると夜鷹《よたか》といふ鳥《とり》が空《そら》を飛《と》[#ルビの「と」は底本では「とび」]びました。その夜鷹《よたか》の出《で》る時分《じぶん》には、蝙蝠《かうもり》までが一|緒《しよ》に舞《ま》ひ出《だ》しました。
『蝙蝠《かうもり》――來《こ》い、來《こ》い。』
と言《い》ひながら、父《とう》さんは蝙蝠《かうもり》と一|緒《しよ》になつて飛《と》び歩《ある》いたものです。どうかすると狐火《きつねび》といふものが燃《も》えるのも、村《むら》の夕方《ゆふがた》でした。
『御覽《ごらん》狐火《きつねび》が燃《も》えて居《ゐ》ますよ。』
と村《むら》の人《ひと》に言《い》はれて、父《とう》さんはお家《うち》の前《まへ》からそのチラ/\と燃《も》える青《あを》い狐火《きつねび》を遠《とほ》い山《やま》の向《むか》ふの方《はう》に望《のぞ》んだこともありました。あれは狐《きつね》が松明《たいまつ》を振《ふ》るのだとも言《い》ひましたし、奧山《おくやま》の木《き》の根《ね》が腐《くさ》つて光《ひか》るのを狐《きつね》が口《くち》にくはへて振《ふ》るのだとも言《い》ひました。父《とう》さんは子供《こども》で、なんにも知《し》りませんでしたが、あの青《あを》い美《うつく》しい不思議《ふしぎ》な狐火《きつねび》を夢《ゆめ》のやうに思《おも》ひました。父《とう》さんの生《うま》れたところは、それほど深《ふか》い山《やま》の中《なか》でした。

   七 水《みづ》の話《はなし》

父《とう》さんの田舍《ゐなか》は木曾街道《きそかいだう》の中《なか》の馬籠峠《うまかごたうげ》といふところで、信濃《しなの》の國《くに》の一|番《ばん》西《にし》の端《はし》にあたつて居《ゐ》ました。お正月《しやうぐわつ》のお飾《かざ》りを片付《かたづ》ける時分《じぶん》には、村中《むらぢう》の門松《かどまつ》や注連繩《しめなは》などを村《むら》のはづれへ持《も》つて行《い》つて、一|緒《しよ》にして燒《や》きました。村《むら》の人《ひと》はめい/\お餅《もち》を竿《さを》の先《さき》にさしてその火《ひ》で燒《や》いて食《た》べたり、子供《こども》のお清書《せいしよ》を煙《けむり》の中《なか》に投《な》げこんで、高《たか》く空《そら》にあがつて行《ゆ》く紙《かみ》の片《きれ》を眺《なが》めたりしました。火《ひ》の氣《け》と、煙《けむり》とで、お清書《せいしよ》が高《たか》くあがれば、それを書《か》いたものの手《て》があがると言《い》ひました。松《まつ》の燃《も》える煙《けむり》と一|緒《しよ》になつてお清書《せいしよ》が高《たか》く、高《たか》くあがつて行《ゆ》くのは丁度《ちやうど》凧《たこ》でもあげるのを見《み》るやうでした。その正月《しやうぐわつ》のお飾《かざり》を集《あつ》めて燒《や》く村《むら》のはづれまで行《ゆ》きますと、その邊《へん》にはびつくりするほど大《おほ》きな岩《いは》や石《いし》が田圃《たんぼ》の間《あひだ》に見《み》えました。そこからはもう信濃《しなの》と美濃《みの》の國境《くにさかひ》に近《ちか》いのです。父《とう》さんの田舍《ゐなか》は信濃《しなの》の山國《やまぐに》から平《たひら》な野原《のはら》の多《おほ》い美濃《みの》の方《はう》へ降《おり》て行《ゆ》く峠《たうげ》の一|番《ばん》上《うへ》のところにあつたのです。
さういふ岩《いは》や石《いし》の多《おほ》い峠《たうげ》の上《うへ》に出來《でき》たお城《しろ》のやうな村《むら》ですから、まるで梯子段《はしごだん》の上《うへ》にお家《うち》があるやうに、石垣《いしがき》をきづいては一|軒《けん》づゝお家《うち》が建《た》てゝありました。どちらを向《む》いても坂《さか》ばかりでした。父《とう》さんがお隣《となり》の酒屋《さかや》の方《はう》へ上《のぼ》つて行《ゆ》くにも坂《さか》、お忠《ちう》婆《ばあ》さんといふ人《ひと》の住《す》む家《うち》の方《はう》へ降《お》りて行《ゆ》くにも坂《さか》でした。
この田舍《ゐなか》は水《みづ》に不自由《ふじいう》なところでした。谷《たに》の底《そこ》
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