の方《はう》まで行《ゆ》けば山《やま》の間《あひだ》を流《なが》れて來《く》る谷川《たにがは》がなくもありませんが、人家《じんか》の近《ちか》くにはそれもありませんでした。そこで峠《たうげ》の方《はう》から清水《しみづ》を引《ひ》いて、それを溜《た》める塲所《ばしよ》が造《つく》つてあつたのです。何《なん》といふ好《よ》い清水《しみづ》が長《なが》い樋《とひ》を通《とほ》つて、どん/\流《なが》れて來《き》ましたらう。父《とう》さんが輪《わ》でも廻《まは》しながら遊《あそ》びに行《い》つて見《み》ますと、流《なが》れて來《き》た水《みづ》が大《おほ》きな箱《はこ》の中《なか》に澄《す》んで溜《た》まつて居《ゐ》ます。その水《みづ》が箱《はこ》から溢《あふ》れて村《むら》の下《しも》の方《はう》へ流《なが》れて行《ゆ》きます。天秤棒《てんびんぼう》で兩方《りやうはう》の肩《かた》に手桶《てをけ》をかついだ近所《きんじよ》の女達《をんなたち》がそこへ水汲《みづくみ》に集《あつ》まつて來《き》ます。水《みづ》の不自由《ふじいう》なところに生《うま》れた父《とう》さんは特別《とくべつ》にその清水《しみづ》のあるところを樂《たのし》く思《おも》ひました。みんなが威勢《ゐせい》よく水《みづ》を汲《く》んだり擔《かつ》いだりするのを見《み》るのも樂《たのし》く思《おも》ひました。そればかりではありません。父《とう》さんが子供《こども》の時分《じぶん》から水《みづ》といふものを大切《たいせつ》に思《おも》ひ、ずつと大《おほ》きくなつても水《みづ》の流《なが》れて居《ゐ》るのを見《み》るのが好《す》きで、水《みづ》の音《おと》を聞《き》くのも好《す》きなのは、斯《か》うして水《みづ》に不自由《ふじいう》な田舍《ゐなか》に生《うま》れたからだと思《おも》ひます。
父《とう》さんのお家《うち》には井戸《ゐど》が掘《ほ》つてありました。その井戸《ゐど》は柄杓《ひしやく》で水《みづ》の汲《く》めるやうな淺《あさ》い井戸《ゐど》ではありません。釣《つ》いても、釣《つ》いても、なか/\釣瓶《つるべ》の上《あが》つて來《こ》ないやうな、深《ふか》い/\井戸《ゐど》でした。
父《とう》さんの祖母《おばあ》さんの隱居所《いんきよじよ》になつて居《ゐ》た二|階《かい》と土藏《どざう》の間《あひだ》を通《とほ》りぬけて、裏《うら》の木小屋《きごや》の方《はう》へ降《おり》て行《ゆ》く石段《いしだん》の横《よこ》に、その井戸《ゐど》がありました。そこも父《とう》さんの好《す》きなところで、家《うち》の人《ひと》が手桶《てをけ》をかついで來《き》たり、水《みづ》を汲《く》んだりする側《そば》に立《た》つて、それを見る《み》のを樂《たのし》く思《おも》ひました。父《とう》さんの幼少《ちひさ》な時分《じぶん》にはお家《うち》にお雛《ひな》といふ女《をんな》が奉公《ほうこう》して居《ゐ》まして、半分《はんぶん》乳母《うば》のやうに父《とう》さんを負《おぶ》つたり抱《だ》いたりして呉《く》れたことを覺《おぼ》えて居《ゐ》ます。そのお雛《ひな》は井戸《ゐど》から石段《いしだん》を上《あが》り、土藏《どざう》の横《よこ》を通《とほ》り、桑畠《くはばたけ》の間《あひだ》を通《とほ》つて、お家《うち》の臺所《だいどころ》までづゝ水《みづ》を運《はこ》びました。

   八 凧《たこ》

山《やま》の中《なか》の田舍《ゐなか》では、近所《きんじよ》に玩具《おもちや》を賣《う》る店《みせ》もありません。村《むら》の子供《こども》は凧《たこ》なぞも自分《じぶん》で造《つく》りました。
父《とう》さんはまだ幼少《ちひさ》かつたものですから、お家《うち》の爺《ぢい》やに手傳《てつだ》つて貰《もら》ひまして、造作《ざうさ》なく出來《でき》る凧《たこ》を造《つく》りました。紙《かみ》と絲《いと》とはお祖母《ばあ》さんが下《くだ》さる、骨《ほね》の竹《たけ》は裏《うら》の竹籔《たけやぶ》から爺《ぢい》やが切《き》つて來《き》て呉《く》れる、何《なに》もかもお家《うち》にある物《もの》で間《ま》に合《あ》ひました。爺《ぢい》やが青《あを》い竹《たけ》を細《ほそ》く削《けづ》つて呉《く》れますと、それに父《とう》さんが御飯粒《ごはんつぶ》で紙《かみ》を張《は》りつけまして、鯣《するめ》のかたちの凧《たこ》を造《つく》りました。みんなのするやうに、凧《たこ》の尾《を》には矢張《やはり》紙《かみ》を長《なが》く切《き》つてさげました。
末子《すゑこ》は學校《がくかう》の先生《せんせい》[#ルビの「せんせい」は底本では「せうせい」]から手工《しゆこう》を習《なら》ひませう、自分《じぶん》で紙《かみ》の箱《はこ》
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