《あ》りました。祖父《おぢい》さんはいつでも書院《しよゐん》に居《ゐ》ました。父《とう》さんもその書院《しよゐん》に寢《ね》ましたが、曾祖母《ひいおばあ》さんが獨《ひと》りで寂《さび》しいといふ時《とき》には離《はな》れの隱居部屋《ゐんきよべや》へも泊《とま》[#ルビの「とま」は底本では「ま」]りに行《い》くことが有《あ》りました。祖父《おぢい》さんの書院《しよゐん》の前《まへ》には、白《しろ》い大《おほ》きな花《はな》の咲《さ》く牡丹《ぼたん》があり、古《ふる》い松《まつ》の樹《き》もありました。月《つき》のいゝ晩《ばん》なぞには松《まつ》の樹《き》の影《かげ》が部屋《へや》の障子《しやうじ》に映《うつ》りました。この書院《しよゐん》から中《なか》の間《ま》へつゞく廊下《らうか》のあたりは、父《とう》さんのよく遊《あそ》んだところです。中《なか》の間《ま》はお家《うち》のなかでも一|番《ばん》明《あか》るい部屋《へや》でして、遠《とほ》く美濃《みの》の國《くに》の方《はう》の空《そら》までその部屋《へや》から見《み》えました。祖母《おばあ》さんや伯母《をば》さんが針仕事《はりしごと》をひろげるのもその部屋《へや》でしたし、父《とう》さんが武者繪《むしやゑ》の敷寫《しきうつ》しなどをして遊《あそ》ぶのもその部屋《へや》でしたし、お隣《とな》りのお勇《ゆう》さんが手習《てならひ》に來《き》て祖父《おぢい》さんの書《か》いたお手本《てほん》を習《なら》ふのもその部屋《へや》でした。
お隣《とな》りの鐵《てつ》さんは、父《とう》さんのお家《うち》の友伯父《ともをぢ》さんと同《おな》い年《どし》ぐらゐで、一緒《いつしよ》に遊《あそ》ぶにも父《とう》さんの方《はう》がいくらか弟《おとうと》のやうに思《おも》はれるところが有《あ》りました。近所《きんじよ》の子供《こども》の中《なか》で、遊《あそ》んで氣《き》の置《お》けないのは、問屋《とんや》の三|郎《らう》さんに、お隣《とな》りのお勇《ゆう》さんでした。この人達《ひとたち》は父《とう》さんと同《おな》い年《どし》でした。祖父《おぢい》さんは字《じ》を書《か》くことが好《す》きで、赤《あか》い毛氈《まうせん》の上《うへ》へ大《おほ》きな紙《かみ》をひろげて、夜《よ》遲《おそ》くなるまで何《なに》かよく書《か》きましたが、その度《たび》に眠《ねむ》い眼《め》をこすり/\蝋燭《らふそく》を持《も》たせられるのはお勇《ゆう》さんや父《とう》さんの役目《やくめ》でした。
末子《すゑこ》よ。お前《まへ》は『おばこ』といふ草《くさ》の葉《は》を採《と》つて遊《あそ》んだことが有《あ》りますか。あの草《くさ》の葉《は》は糸《いと》にぬいて、みんなよく織《お》る真似《まね》をして遊《あそ》びませう。お隣《とな》りのお勇《ゆう》さんもあの『おばこ』を採《と》つて來《き》て織《お》ることを樂《たのし》みにするやうな幼《をさな》い年頃《としごろ》でした。
四二 屋號《やがう》
どこの田舍《ゐなか》にもあるやうに、父《とう》さんの村《むら》でも家毎《いへごと》に屋號《やがう》がありました。大黒屋《だいこくや》、俵屋《たはらや》、八幡屋《やはたや》、和泉屋《いづみや》、笹屋《さゝや》、それから扇屋《あふぎや》といふやうに。
笹屋《さゝや》とは笹《さゝ》のやうに繁《しげ》る家《いへ》、扇屋《あふぎや》とは扇《あふぎ》のやうに末《すゑ》の廣《ひろ》がる家《いへ》といふ意味《いみ》からでせう。でも笹屋《さゝや》と言《い》つてもそれを『笹《さゝ》の家《や》』と思《おも》ふものもなく、扇屋《あふぎや》と言《い》つても『扇《あふぎ》の家《や》』と思《おも》ふものはありません。屋號《やがう》といふものは、その家々《いへ/\》の符牒《ふてふ》のやうに思《おも》はれて居《ゐ》るものでした。
四三 お墓參《はかまゐ》りの道《みち》
村《むら》の人達《ひとたち》――殊《こと》に女《をんな》の人達《ひとたち》の通《とほ》る裏道《うらみち》は並《なら》んだ人家《じんか》に添《そ》ふて村《むら》の裏側《うらがは》に細《ほそ》くついて居《ゐ》ました。父《とう》さんのお家《うち》の裏木戸《うらきど》から、竹籔《たけやぶ》について廻《まは》りますと、その細《ほそ》い裏道《うらみち》へ出《で》ました。祖母《おばあ》さんに連《つ》れられて、父《とう》さんはよくその道《みち》をお墓《はか》の方《はう》へ通《かよ》ひました。
お墓《はか》へ行《い》く道《みち》は、村《むら》のものだけが通《とほ》る道《みち》です。旅人《たびびと》の知《し》らない道《みち》です。田畠《たはたけ》に出《で》て働《はたら》く人達《ひとたち》の見《み》える樂《
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