《ふる》い長持《ながもち》から、お前達《まへたち》の祖父《おぢい》さんの集《あつ》めた澤山《たくさん》な本箱《ほんばこ》まで、その藏《くら》の二|階《かい》にしまつて有《あ》りました。祖母《おばあ》さんはあの鍵《かぎ》の用《よう》が濟《す》むと、藏《くら》の前《まへ》の石段《いしだん》を降《お》りて、柿《かき》の木《き》の間《あひだ》を通《とほ》りましたが、そこに父《とう》さんがよく遊《あそ》んで居《ゐ》たのです。味噌藏《みそぐら》の階上《うへ》には住居《すまゐ》に出來《でき》た二|階《かい》がありました。そこがお前達《まへたち》の曾祖母《ひいおばあ》さんの隱居部屋《ゐんきよべや》になつて居《ゐ》ました。

   四○ 祖父《おぢい》さんの好《す》きな御幣餅《ごへいもち》

木曾《きそ》の御幣餅《ごへいもち》とは、平《ひら》たく握《にぎ》つたおむすびの小《ちい》さいのを二つ三つぐらゐづゝ串《くし》にさし、胡桃醤油《くるみしやうゆう》をかけ、爐《ろ》の火《ひ》で燒《や》いたのを言《い》ひます。その形《かたち》が似《に》て居《ゐ》るから御幣餅《ごへいもち》でせう。人々《ひと/″\》は爐邊《ろばた》に集《あつま》りまして、燒《や》きたてのおいしいところを食《た》べるのです。
お前達《まへたち》の祖父《おぢい》さんは、この御幣餅《ごへいもち》が好《す》きでした。日頃《ひごろ》村《むら》の人達《ひとたち》から『お師匠《ししやう》さま、お師匠《ししやう》さま。』と親《した》しさうに呼《よ》ばれて居《ゐ》たのも、この御幣餅《ごへいもち》の好《す》きな祖父《おぢい》さんでした。
祖父《おぢい》さんは學問《がくもん》の人《ひと》でしたから、『三字文《さんもじ》』だの『勸學篇《くわんがくへん》』だのといふものを自分《じぶん》で書《か》いて、それを少年《せうねん》の讀本《とくほん》のやうにして、幼少《ちひさ》な時分《じぶん》の父《とう》さんに教《をし》へて呉《く》れました。山《やま》の中《なか》にあつた父《とう》さんのお家《うち》では、何《なに》から何《なに》まで手製《てせい》でした。手習《てならひ》のお手本《てほん》から讀本《とくほん》まで、祖父《おぢい》さんの手製《てせい》でした。

   四一 お隣《とな》りの人達《ひとたち》

お隣《とな》りの大黒屋《だいこくや》は酒《さけ》を造《つく》る家《うち》でした。そこの家《うち》でお風呂《ふろ》が立《た》てば父《とう》さんのお家《うち》へ呼《よ》びに來《き》ましたし、父《とう》さんのお家《うち》でお風呂《ふろ》が立《た》てばお隣《となり》りからも呼《よ》ばれて入《はひ》りに來《き》ました。田舍《ゐなか》のことで、日《ひ》が暮《く》れてからお隣《とな》りまでお風呂《ふろ》を呼《よ》ばれに行《い》くにも、祖母《おばあ》さん達《たち》は提灯《ちやうちん》つけて通《かよ》ひました。二|軒《けん》の家《うち》のものは、それほど親《した》しく往《い》つたり來《き》たりしましたから、子供同志《こどもどうし》も互《たがひ》に親《した》しい遊《あそ》び友達《ともだち》でした。それに、お隣《とな》りの鐵《てつ》さんでも、その妹《いもうと》のお勇《ゆう》さんでも、祖父《おぢい》さんのお弟子《でし》として父《とう》さんのお家《うち》へ通《かよ》つて來《き》ました。父《とう》さんのお家《うち》の方《はう》から見《み》ますと、大黒屋《だいこくや》は一段《いちだん》と高《たか》い石垣《いしがき》の上《うへ》にありまして、その石垣《いしがき》のすぐ下《した》のところまで父《とう》さんのお家《うち》の桑畠《くはばたけ》が續《つゞ》いて居《ゐ》ましたから、朝日《あさひ》でもさして來《く》るとお隣《とな》りの家《うち》の白《しろ》い壁《かべ》がよく光《ひか》りました。
父《とう》さんはこゝでお前達《まへたち》に、自分《じぶん》の生《うま》[#ルビの「うま」は底本では「う」]れたお家《うち》のこともすこしお話《はなし》しようと思《おも》ひます。父《とう》さんのお家《うち》は昔《むかし》は本陣《ほんぢん》と言《い》ひまして、村《むら》でも舊《ふる》い/\お家《うち》でした。父《とう》さんの幼少《ちひさ》な時分《じぶん》には、昔《むかし》のお大名《だいみやう》が木曽路《きそぢ》を通《とほ》る時《とき》に泊《と》まつたといふ古《ふる》[#ルビの「ふる」は底本では「ふ」]い部屋《へや》まで殘《のこ》つて居《ゐ》ました。部屋々々《へや/\》には、いろ/\な名前《なまへ》が昔《むかし》からつけてありまして、上段《じやうだん》の間《ま》、奧《おく》の間《ま》、中《なか》の間《ま》、次《つぎ》の間《ま》、それから寛《くつろ》ぎの間《ま》なぞといふのが有
前へ 次へ
全43ページ中27ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング