ぜ》かといひますに、胡桃《くるみ》の生《は》えて居《ゐ》るところへ行《い》つて見《み》ますと、きまりでその邊《へん》には水《みづ》が流《なが》れて居《ゐ》ましたから。父《とう》さん達《たち》は笊《ざる》を持《も》つて行《ゆ》きまして、石《いし》の間《あひだ》に隱《かく》れて居《ゐ》る鰍《かじか》を追《お》ひました。
もしかして笊《ざる》のかはりに釣竿《つりざを》をかついで、何《なに》かもつと他《ほか》の魚《さかな》をも釣《つ》りたいと思《おも》ふ時《とき》には、爺《ぢい》やに頼《たの》んで釣竿《つりざを》を造《つく》つて貰《もら》ひました。
斯《か》ういふ遊《あそ》びにかけては、友伯父《ともをぢ》さんはなか/\※[#「熱」の左上が「幸」、142−2]心《ねつしん》でした。なにしろ父《とう》さんの村《むら》には釣《つり》の道具《だうぐ》一つ賣《う》る店《みせ》もなかつたものですから、釣竿《つりざを》の先《さき》につける糸《いと》でも何《なん》でもみんな友伯父《ともをぢ》[#「友伯父」は底本では「及伯父」]さんが爺《ぢい》やに手傳《てつだ》つて貰《もら》つて造《つく》りました。糸《いと》は栗《くり》の木《き》の虫《むし》から取《と》りました。その栗《くり》の木《き》の虫《むし》から取《と》れた糸《いと》を酢《す》に浸《つ》けて、引《ひ》き延《の》ばしますと、木小屋《きごや》の前《まへ》に立《た》つ爺《ぢい》やの手《て》から向《むか》ふの古《ふる》い池《いけ》の側《わき》に立《た》つ友伯父《ともをぢ》さんの手《て》に屆《とゞ》くほどの長《なが》さがありました。それを日《ひ》に乾《ほ》して、釣竿《つりざを》の糸《いと》に造《つく》ることなどは、友伯父《ともをぢ》さんも好《す》きでよくやりました。
斯《こ》の釣《つり》の道具《だうぐ》を提《さ》げて、友伯父《ともをぢ》さん達《たち》と一緒《いつしよ》に復《ま》た胡桃《くるみ》の木《き》の見《み》える谷間《たにあひ》へ出掛《でか》けますと、何時《いつ》でも父《とう》さんは魚《さかな》に餌《え》を取《と》られてしまふか、さもなければもう面倒臭《めんだうくさ》くなつて釣竿《つりざを》で石《いし》の間《あひだ》をかき廻《まは》すかしてしまひました。そしてお家《うち》の方《はう》へ歸《かへ》つて來《く》る度《たび》に、
『釣竿《つりざを》ばかりでは、魚《さかな》は釣《つ》れませんよ。』
と爺《ぢい》やに笑《わら》はれました。

   三九 祖母《おばあ》さんの鍵《かぎ》

お前達《まへたち》の祖母《おばあ》さんのことは、前《まへ》にもすこしお話《はなし》[#ルビの「はなし」は底本では「はなた」]したと思《おも》ひます。祖母《おばあ》さんは、父《とう》さんが子供《こども》の時分《じぶん》の着物《きもの》や帶《おび》まで自分《じぶん》で織《お》つたばかりでなく、食《た》べるもの――お味噌《みそ》からお醤油《しやうゆ》の類《たぐひ》までお家《うち》で造《つく》り祖母《おばあ》さんが自分《じぶん》の髮《かみ》につける油《あぶら》まで庭《には》の椿《つばき》の實《み》から絞《しぼ》りまして、物《もの》を手造《てづく》りにすることの樂《たのし》みを父《とう》さんに教《をし》へて呉《く》れました。『質素《しつそ》』を愛《あい》するといふことを、いろ/\な事《こと》で父《とう》さんに教《をし》へて見《み》せて呉《く》れたのも祖母《おばあ》さんでした。祖母《おばあ》さんはよく※[#「熱」の左上が「幸」、145−2]《あつ》い鹽《しほ》のおむすびを庭《には》の朴《はう》の木《き》の葉《は》につゝみまして、父《とう》さんに呉《く》れました。握《にぎ》りたてのおむすびが彼樣《あう》すると手《て》にくツつきませんし、その朴《はう》の葉《は》の香氣《にほひ》を嗅《か》ぎながらおむすびを食《た》べるのは樂《たのし》みでした。
この祖母《おばあ》さんと言《い》へば、廣《ひろ》い玄關《げんくわん》の側《わき》の板《いた》の間《ま》で機《はた》を織《お》りながら腰掛《こしか》けて居《ゐ》る人《ひと》と、味噌藏《みそぐら》の側《わき》の土藏《どざう》の前《まへ》に立《た》つて大《おほ》きな鍵《かぎ》を手《て》にして居《ゐ》る人《ひと》とが、今《いま》でもすぐに父《とう》さんの眼《め》に浮《うか》んで來《き》ます。祖母《おばあ》さんの鍵《かぎ》は金網《かなあみ》の張《は》つてある重《おも》い藏《くら》の戸《と》を開《あ》ける鍵《かぎ》で、紐《ひも》と板片《いたきれ》をつけた鍵《かぎ》で、いろ/\な箱《はこ》に入《はひ》つた器物《うつは》を藏《くら》から取出《とりだ》す鍵《かぎ》でした。祖母《おばあ》さんがおよめに來《き》た時《とき》の古
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