《い》かうとはしませんでした。そこいらにはもう誰《だれ》も人《ひと》の居《ゐ》ない頃《ころ》で、木戸《きど》に近《ちか》いお稻荷《いなり》さまの小《ちひ》さな社《やしろ》から、お家《うち》の裏手《うらて》にある深《ふか》い竹籔《たけやぶ》の方《はう》へかけて、何《なに》もかも、ひつそりとして居《ゐ》ました。大《おほ》きな蝶々《てふ/\》だけが氣味《きみ》の惡《わる》い黒《くろ》い羽《はね》をひろげて、枳殼《からたち》のまはりを飛《と》んで居《ゐ》ました。それを見《み》ると、父《とう》さんはその蝶々《てふ/\》を殺《ころ》してしまはないうちは安心《あんしん》の出來《でき》ないやうな氣《き》がして、手《て》にした竹竿《たけざを》で、滅茶々々《めちや/\》に枳殼《からたち》の枝《えだ》の方《はう》を打《う》つて置《お》いて、それから木戸《きど》の内《うち》へ逃《に》げ込《こ》みました。
未《いま》だに父《とう》さんはあの時《とき》のことを忘《わす》れません。母屋《もや》の石垣《いしがき》の下《した》にある古《ふる》い池《いけ》の横手《よこて》から、ひつそりとした木小屋《きごや》の前《まへ》を通《とほ》り、井戸《ゐど》の側《わき》の石段《いしだん》を馳《か》け登《のぼ》るやうにしまして、祖母《おばあ》さん達《たち》の居《ゐ》る方《はう》へ急《いそ》いで歸《かへ》つて行《い》つた時《とき》のことを忘《わす》れません。
それにつけても、父《とう》さんはある亞米利加人《あめりかじん》の話《はなし》を思《おも》ひ出《だ》します。
その亞米利加人《あめりかじん》がまだ子供《こども》の時分《じぶん》に龜《かめ》の子《こ》を打《う》つた話《はなし》を思《おも》ひ出《だ》します。生《うま》れて初《はじ》めて『惡《わる》い』といふ事《こと》をほんたうに知《し》つた、自分《じぶん》で惡《わる》いと思《おも》ひながら復《ま》た棒《ぼう》を振上《ふりあ》げ/\して龜《かめ》の子《こ》を打《う》つのに夢中《むちう》になつてしまつた、あんな心持《こゝろもち》は初《はじ》めてだ、さう亞米利加人《あめりかじん》の話《はなし》の中《なか》に書《か》いてあつたことを思《おも》ひ出《だ》します。その亞米利加人《あめりかじん》が母親《はゝおや》から言《い》はれた言葉《ことば》を引《ひ》いて、あれが自分《じぶん》の
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