乘《の》つて行《い》きました。やがて馬車《ばしや》がある町《まち》を通《とほ》りました時《とき》に、父《とう》さんは初《はじ》めて消防夫《ひけし》の梯子登《はしごのぼ》りといふものを見《み》ました。高《たか》い梯子《はしご》に乘《の》つた人《ひと》が町《まち》の空《そら》で手足《てあし》を動《うご》かして居《ゐ》ました。父《とう》さんは馬車《ばしや》の上《うへ》からそれを眺《なが》めて、子供心《こどもごゝろ》にめづらしく思《おも》つて行《い》きました。伯父《をぢ》さんの話《はなし》で、そこが上州《じやうしう》の松井田《まつゐだ》といふ町《まち》だといふことも知《し》りました。またそれから飽《あ》きるほど乘《の》つて行《ゆ》くうちに、馬車《ばしや》はある川《かは》の岸《きし》へ出《で》ました。川《かは》にかけた橋《はし》の落《お》ちた時《とき》とかで、伯父《をぢ》さんでも誰《たれ》でも皆《みな》その馬車《ばしや》から降《お》りて、水《みづ》の淺《あさ》い所《ところ》を渉《わた》りました。
父《とう》さんは馬丁《べつたう》の背中《せなか》に負《おぶ》さつて、川《かは》を越《こ》しました。その川《かは》は烏川《からすがは》といふ川《かは》だと聞《き》きました。
まあ、父さんも、どんなに幼少《ちひさ》い子供《こども》だつたでせう。東京行《とうきやうゆき》の馬車《ばしや》の中《なか》には、一緒《いつしよ》に乘合《のりあは》せた他所《よそ》の小母《をば》さんもありました。その知《し》らない小母《をば》さんが旅《たび》の袋《ふくろ》からお菓子《くわし》なぞを出《だ》しまして、それを父《とう》さんにおあがりと言《い》つて呉《く》れたこともありました。いくら乘《の》つても乘《の》つても、なか/\東京《とうきやう》へは着《つ》かないものですから、しまひには父《とう》さんも馬車《ばしや》に退屈《たいくつ》しまして、他所《よそ》の小母《をば》さんに抱《だ》かれながらその膝《ひざ》の上《うへ》に眠《ねむ》つてしまつたことも有《あ》りました。

   七〇 終《をはり》の話《はなし》

こんな風《ふう》にして父《とう》さんは自分《じぶん》の生《うま》れたふるさとを幼少《ちひさ》な時分《じぶん》に出《で》て來《き》たものです。それから長《なが》い年月《としつき》の間《あひだ》を置《お》いては、木
前へ 次へ
全86ページ中83ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング