て見せた。その時、奥様はすこしうつ向き勝ちに、おげんの立っている前を考え深そうな足どりで静かに通り過ぎた。見ると、そこいらに遊んでいた犬が奥様の姿を見つけて、長い尻尾《しっぽ》を振りながら後を追った。
「小山さん、お部屋の方へお膳が出ていますよ」
と呼ぶ看護婦の声に気がついて、おげんはその日の夕飯をやりに自分の部屋へ戻った。
廊下を歩む犬の足音は、それからおげんの耳につくように成った。看護婦が早く敷いてくれる床の中に入って、枕に就《つ》いてからも、犬の足音が妙に耳についてよく眠られなかった。おげんは小さな獣の足音を部屋の障子の外にも、縁の下にも聞いた。彼女はあの奥様の眠っている部屋の床板の下あたりを歩き廻る白い犬のかたちを想像でありありと見ることも出来た。八つ房という犬に連添って八人の子を産んだという伏姫《ふせひめ》のことなぞが自然と胸に浮んで来た。おげんはまだ心も柔く物にも感じ易《やす》い若い娘の頃に馬琴の小説本で読み、北斎の※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]画《さしえ》で見た伏姫の物語の記憶を辿って、それをあの奥様に結びつけて想像して見た。この想像から、おげんはいいあらわし難い恐怖を誘われた。
「小山さん、弟さんですよ」
と、ある日、看護婦が熊吉を案内して来た。おげんは待ち暮らした弟を、自分の部屋に見ることが出来た。
「今日は江戸川の終点までやって来ましたら、あの電車を降りたところに私の顔を知った車夫が居ましてね、しきりに乗れ、乗れって勧めましたっけ。今日はここまで歩きました」
こう熊吉は言って、姉の見舞に提《さ》げて来たという菓子折をそこへ取出した。
「静かなところじゃ有りませんか。」
とまた弟は姉のために見立てた養生園がさも自分でも気に入ったように言って見せた。
「どれ、何の土産《みやげ》をくれるか、一つ拝見せず」
とおげんは新しい菓子折を膝《ひざ》に載せて、蓋《ふた》を取って見た。病室で楽しめるようにと弟の見立てて来たらしい種々な干菓子がそこへ出て来た。この病室に置いて見ると、そんな菓子の中にも陰と陽とがあった。おげんはそれを見て、笑いながら、
「こないだ、お玉が見舞に来てくれた時のお菓子が残っているで、これは俺がまた後で、看護婦さんにも少しずつ分けてやるわい」
お玉とは、おげんが一番目の弟の宗太の娘の名だ。お玉夫婦は東京に世帯《しょたい》を持っていたが、宗太はもう長いこと遠いところへ行っていた。おげんはその宗太の娘から貰った土産の蔵《しま》ってある所をも熊吉に示そうとして、部屋の戸棚《とだな》についた襖《ふすま》までも開けて見せた。それほどおげんには見舞に来てくれる親戚がうれしかった。おげんは又、弟からの土産を大切にして、あちこちと部屋の中を持ち廻った。
「熊吉や」とおげんは声を低くして、「この養生園には恐い奥様がいるぞや。患者の中で、奥様が一番こわい人だぞや。多分お前も廊下で見掛けただらず。奥様が犬を連れていて、その犬がまた気味の悪い奴よのい。誰の部屋へでも這入《はい》り込んで行く。この部屋まで這入って来る。何か食べる物でも置いてやらないと、そこいら中あの犬が狩りからかす」
と言いかけて、おげんは弟の土産の菓子を二つ三つ紙の上に載せ、それを部屋の障子の方へ持って行った。しばらくおげんは菓子を手にしたまま、障子の側に立って、廊下を通る物音に耳を澄ました。
「今に来るぞや。あの犬が嗅《か》ぎつけて来るぞや。こうしてお菓子を障子の側に置きさえすれば、もう大丈夫」
おげんは弟に笑って見せた。その笑いはある狡猾《こうかつ》な方法を思いついたことを通わせた。彼女は敷居の近くにその菓子を置いて、忍び足で弟の側へ寄った。
「姉さん、障子をしめて置いたら、そんな犬なんか入って来ますまいに」と熊吉は言った。
「ところが、お前、どんな隙間《すきま》からでも入って来る奴だ。何時《いつ》の間にか忍び込んで来るような奴だ。高い声では言われんが、奥様が産んだのはあの犬の子だぞい。俺はもうちゃんと見抜いている――オオ、恐《こわ》い、恐い」
とおげんはわざと身をすぼめて、ちいさくなって見せた。
熊吉は犬の話にも気乗りがしないで、他に話題をかえようとした。弟はこの養生園の生活のことで、おげんの方で気乗りのしないようなことばかり話したがった。でもおげんは弟を前に置いて、対《むか》い合っているだけでも楽みに思った。
やがて熊吉はこの養生園の看護婦長にでも逢って、姉のことをよく頼んで行きたいと言って、座を起《た》ちかけた。
「熊吉、そんなに急がずともよからず」
とおげんは言って、弟を放したくなかった。
彼女は無理にも引留めたいばかりにして、言葉をついだ。
「こんなところへ俺を入れたのはお前だぞや。早く出すようにしてくれよ」
それを聞いて熊吉は起ちあがった。見舞いに来る親戚も、親戚も、きっと話の終りには看護婦に逢って行くことを持出して、何時の間にか姿を隠すように帰って行くのが、おげんに取っては可笑《おか》しくもあり心細くもあった。この熊吉が養生園の応接間の方から引返して来て、もう一度姉の部屋の外で声を掛けた時は、おげんもそこまで送りに出た。
多勢で広い入口の部屋に集まって、その日の新聞なぞをひろげている看護婦達の顔付も若々しかった。丁度そこへ例の奥様も顔を見せた。
「これが弟でございます」
とおげんは熊吉が編上げの靴の紐《ひも》を結ぶ後方《うしろ》から、奥様の方へ右の手をひろげて見せた。弟が出て行った後でも、しばらくおげんはそこに立ちつくした。
「きっと熊吉は俺を出しに来てくれる」
とおげんは独《ひと》りになってから言って見た。
翌朝、看護婦はおげんのために水薬の罎《びん》を部屋へ持って来てくれた。
「小山さん、今朝からお薬が変りましたよ」
という看護婦の声は何となくおげんの身にしみた。おげんは弟の置いて行った土産を戸棚から取出して、それを看護婦に分け、やがてちいさな声で、
「あの奥様の連れている犬が、わたしは恐くて、恐くて」
と言って見せた。看護婦は不思議そうにおげんの顔を眺めて、
「そんな犬なんか何処にも居ませんよ」
こう言って部屋を出て行った。
その時の看護婦の残して行った言葉には、思い疲れたおげんの心をびっくりさせるほどの力があった。
「俺もどうかしているわい」
思わずおげんはそこへ気がついた。しかし、あんなことを言って見せて悪戯好《いたずらず》きな若い看護婦が患者相手の徒然《つれづれ》を慰めようとするのだ、とおげんは思い直した。あの犬は誰の部屋へでも構わず入り込んで来るような奴だ。小さな犬のくせに、どうしてそんな人間の淫蕩《いんとう》の秘密を覚えたかと思われるような奴だ。亡くなった旦那が家出の当時にすら、指一本、人にさされたことのないほど長い苦節を守り続けて来た女の徳までも平気で破りに来ようという奴だ。そう考えると、おげんはこの養生園に居ることが遽《にわか》に恐ろしくなった。夕方にでもなって、他の患者が長い廊下をあちこちと歩いている時に、養生園の庭の見える硝子障子のところへ立って見ると、「そんな犬なんか居ませんよ」と言った看護婦の言葉は果して人をこまらせる悪戯と思われた。あの奥様の後をよく追って歩いて長い裾《すそ》にまつわり戯れるような犬が庭にでも出て遊ぶ時と見えた。おげんは夢のような蒼《あお》ざめた光の映《あた》る硝子障子越しに、白い犬のすがたをありありと見た。
寒い、寒い日が間もなくやって来るように成った。待っても、待っても、熊吉は姉を迎えに来てくれなかった。見舞に来る親戚の足も次第に遠くなって、直次も、直次の娘も、めったに養生園へは顔を見せなかった。おげんは小山の家の方で毎年漬物の用意をするように、病室の入口の部屋に近い台所に出ていた。彼女の心は山のように蕪菜《かぶらな》を積み重ねた流し許《もと》の方へ行った。青々と洗われた新しい蕪菜が見えて来た。それを漬ける手伝いしていると、水道の栓《せん》から滝のように迸《ほとばし》り出る水が流し許に溢《あふ》れて、庭口の方まで流れて行った。おげんは冷たい水に手を浸して、じゃぶじゃぶとかき廻していた。
看護婦は驚いたように来て見て、大急ぎで水道の栓を止めた。
「小山さん、そんな水いじりをなすっちゃ、いけませんよ。御覧なさいな、お悪戯《いた》をなさるものだから、あなたの手は皸《ひび》だらけじゃありませんか」
と看護婦に叱られて、おげんはすごすごと自分の部屋の方へ戻って行った。その夕方のことであった。おげんは独りでさみしく部屋の火鉢の前に坐っていた。
「小山さん、お客さま」
と看護婦が声を掛けに来た。思いがけない宗太の娘のお玉がそこへ来てコートの紐を解いた。
「伯母さんはまだお夕飯前ですか」とお玉が訊《き》いた。
「これからお膳が出るところよのい」とおげんは姪《めい》に言って見せた。
「それなら、わたしも伯母さんと御一緒に頂くことにしましょう。わたしの分も看護婦さんに頼みましょう」
「お玉もめずらしいことを言出したぞや」
「実は伯母さん、今日は熊叔父さんのお使に上りましたんですよ。わたしが伯母さんのお迎えに参りましたんですよ」
しばらくおげんは姪の顔を見つめたぎり、物も言えなかった。
「お玉はこのおばあさんを担《かつ》ぐつもりずらに」
とおげんは笑って、あまりに突然な姪の嬉しがらせを信じなかった。
しかし、お玉が迎えに来たことは、どうやら本当らしかった。悩ましいおげんの眼には、何処までが待ちわびた自分を本当に迎えに来てくれたもので、何処までが夢の中に消えていくような親戚の幻影《まぼろし》であるのか、その差別もつけかねた。幾度となくおげんはお玉の顔をよく見た。最早二人の子持になるとは言っても変らず若くているような姪の顔をよく見た。そのうちに、看護婦はお玉の方で頼んだ分をも一緒に、膳を二つそこへ運んで来た。おげんはめずらしい身ぶるいを感じた。二月か三月が二年にも三年にも当るような長い寂しい月日を養生園に送った後で、復《ま》た弟の側へ行かれる日の来たことは。
食後に、お玉は退院の手続きやら何やらでいそがしかった。にわかにおげんの部屋も活気づいた。若い気軽な看護婦達はおげんが退院の手伝いするために、長い廊下を往ったり来たりした。
「小山さん、いよいよ御退院でお目出とうございます」
と年嵩《としかさ》な看護婦長までおげんを見に来て悦んでくれた。
「では、伯母さん、御懇意になった方のところへ行ってお別れなすったらいいでしょうに。伯母さんのお荷物はわたしが引受けますから」
「そうせずか。何だか俺は夢のような気がするよ」
おげんは姪とこんな言葉をかわして、そこそこに退院の支度をした。自分でよそゆきの女帯を締め直した時は次第に心の昂奮《こうふん》を覚えた。
「もうお俥《くるま》も来て待っておりますよ。そんなら小山さん、お気をつけなすって」
という看護婦長の声に送られて、おげんは病室を出た。
黒い幌《ほろ》を掛けた俥は養生園の表庭の内まで引き入れてあった。おげんが皆に暇乞《いとまご》いして、その俥に乗ろうとする頃は、屋外《そと》は真暗だった。霜にでも成るように寒い晩の空気はおげんの顔に来た。暗い庭の外まで出て見送ってくれる人達の顔や、そこに立つ車夫の顔なぞが病室の入口から射す燈火《あかり》に映って、僅《わず》かにおげんの眼に光って見えた。間もなくおげんを乗せた俥はごとごと土の上を動いて行く音をさせて養生園の門から離れて行った。
町の燈火がちらちら俥の上から見えるまでに、おげんは可成《かなり》暗い静かな道を乗って行った。彼女は東京のような大都会のどの辺を乗って行くのか、何処へ向って行くのか、その方角すらも全く分らなかった。唯、幌の覗《のぞ》き穴を通して、お玉を乗せた俥の先に動いて行くのと、町の曲り角へでも来た時に前後の車夫が呼びかわす掛声とで、広々としたところへ出て行くことを感じた。さんざん飽きるほど
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