た》る食卓を囲んだ時になっても、おげんの昂奮はまだ続いていた。
「今日は女同士の芝居があってね、お前の留守に大分面白かったよ」
 と直次は姉を前に置いて、熊吉にその日の出来事を話して無造作《むぞうさ》に笑った。そこへおさだは台所の方から手料理の皿に盛ったのを運んで来た。
 おげんはおさだに、
「なあし、おさださん――喧嘩《けんか》でも何でもないで。おさださんとはもうこの通り仲直りしたで」
「ええええ、何でもありませんよ」
 とおさだの方でも事もなげに笑って、盆の上の皿を食卓へと移した。
「うん、田舎風《いなかふう》の御馳走《ごちそう》が来たぞ。や、こいつはうまからず」
 と直次も姉の前では懐《なつか》しい国言葉を出して、うまそうな里芋を口に入れた。その晩はおげんは手が震えて、折角の馳走もろくに咽喉《のど》を通らなかった。
 熊吉は黙し勝ちに食っていた。食後に、おげんは自分の側に来て心配するように言う熊吉の低い声を聞いた。
「姉さん、私と一緒にいらっしゃい――今夜は小間物屋の二階の方へ泊りに行きましょう」
 おげんは点頭《うなず》いた。
 暗い夜が来た。おげんは熊吉より後れて直次の家を出た。遠く青白く流れているような天の川も、星のすがたも、よくはおげんの眼に映らなかった。弟の仕事部屋に上って見ると、姉弟二人の寝道具が運ばさせてあって、おげんの分だけが寝るばかりに用意してあった。おげんは寝衣《ねまき》を着かえるが早いか、いきなりそこへ身を投げるようにして、その日あった出来事を思い出して見ては深い溜息を吐《つ》いた。
「熊吉――この俺が何と見える」
 とおげんは床の上に座り直して言った。熊吉は机の前に坐りながら姉の方を見て、
「姉さんのようにそう昂奮しても仕方がないでしょう。それよりはゆっくりお休みなさい」
「うんにゃ。この俺が何と見えるッて、それをお前に聞いているところだ。みんな寄ってたかって俺を気違い扱いにして」
 急に涙がおげんの胸に迫って来た。彼女は、老い痩《や》せた手でそこにあった坊主枕を力まかせに打った。
「憚《はばか》りながら――」とおげんはまた独《ひと》りでやりだした。「御霊さまが居て、この年寄を守っていてくださるよ。そんな皆の思うようなものとは違うよ。たいもない。御霊さまはお新という娘をも守っていて下さる。この母が側に附いていてもいなくても、守っていて下さる。――何の心配することが要らすか。どうかすると、この母の眼には、あの智慧《ちえ》の足りない娘が御霊さまに見えることもある――」
 熊吉はしばらく姉を相手にしないで、言うことを言わせて置いたが、やがてまたおげんの方を見て、
「姉さんも小山の家の方に居て、何か長い間に見つけたものは有りませんでしたか。姉さんもお父さんの娘でしょう。あのお父さんは歌を読みました。飛騨《ひだ》の山中でお父さんの読んだ歌には、なかなか好いのが有りますぜ。短い言葉で、不器用な言い廻しで、それでもお父さんの旅の悲しみなどがよく出ていますよ。姉さんにもああいうことがあったら、そんなに苦しまずにも済むだろうかと思うんですが」
「俺は歌は読まん。そのかわり若い時分からお父さんの側で、毎日のようにいろいろなことを教わった。聞いて見ろや、何でも俺は言って見せるに――何でも知ってるに――」
 次第に戸の外もひっそりとして来た。熊吉は姉を心配するような顔付で、おげんの寝床の側へ来て坐った。熊吉は黙って煙草ばかりふかしていた。おげんの内部《なか》に居る二人の人が何時《いつ》の間にか頭を持上げた。その二人の人が問答を始めた。一人が何か独言《ひとりごと》を言えば、今一人がそれに相槌《あいづち》を打った。
「熊吉はどうした。熊吉は居ないか」
「居る」
「いや、居ない」
「いや、居る」
「あいつも化物《ばけもの》かも知れんぞ」
「化物とは言ってくれた」
「姉の気も知らないで、人を馬鹿にしてけつかって、そんなものが化物でなくて何だぞ」
 こういう二人の人は激しく相争うような調子にも成った。
「しッ――黙れ」
「黙らん」
「何故、黙らんか」
「何故でも、黙らん――」
 同じ人が裂けて、闘おうとした。生命の焔《ほのお》は恐ろしい力で燃え尽きて行くかのような勢を示した。おげんは自分で自分を制えようとしても、内部《なか》から内部からと押出して来るようなその力をどうすることも出来なかった。彼女はひどく嘆息して、そのうちに何か微吟して見ることを思いついた。ある謡曲の中の一くさりが胸に浮んで来ると、彼女は心覚えの文句を辿り辿り長く声を引いて、時には耳を澄まして自分の嘯《うそぶ》くような声に聞き入って、秋の夜の更けることも忘れた。
 寝ぼけたような鶏の声がした。
「ホウ、鶏が鳴くげな。鶏も眠られないと見えるわい」
 とおげんは言って見たが、ふと気がつくと、熊吉はまだ起きて自分の側に坐っていた。彼女はおよそ何時間ぐらいその床の上に呻《うめ》き続けたかもよく覚えなかった。唯、しょんぼりと電燈のかげに坐っているような弟の顔が彼女の眼に映った。
 翌日は熊吉もにわかに奔走を始めた。おげんは弟が自分のために心配して家を出て行ったことを感づいたが、弟の行先が気になった。ずっと以前に一度、根岸の精神病院に入れられた時の厭《いと》わしい記憶がおげんの胸に浮んだ。旦那も国から一緒に出て来た時だった。その時にも彼女の方では、どうしてもそんな病院などには入らないと言い張ったが、旦那が入れと言うものだから、それではどうも仕方がないとあきらめて、それから一年ばかりをあの病院に送って来たことがある。その時の記憶が復《ま》た帰って来た。おげんはあの牢獄《ろうごく》も同様な場所に身を置くということよりも、狂人《きちがい》の多勢居るところへ行って本物のキ印を見ることを恐れた。午後に、熊吉は小石川方面から戻って来た。果して、弟は小間物屋の二階座敷におげんと差向いで、養生園というところへ行ってきたことを言い出した。江戸川の終点まで電車で乗って行くだけでもなかなか遠かったと話した。
「それは御苦労さま。ゆうべもお前は遅くまで起きて俺の側に附いていてくれたのい。お気の毒だったぞや」
 こうおげんの方から言うと、熊吉は、額のところに手をあてて、いくらか安心したような微笑《えみ》を見せた。
「俺にそんなところへ入れという話なら、真平《まっぴら》」とまたおげんが言った。「俺はそんな病人ではないで。何だかそんなところへ行くと余計に悪くなるような気がするで」
「姉さんはそういうけれど、私の勧めるのは養生園ですよ。根岸の病院なぞとは、病院が違います。そんなに悪くない人が養生のために行くところなんですから、姉さんには丁度好かろうかと思うんです。今日は私も行って見て来ました。まるで普通の家でした。そこに広い庭もあれば、各自《めいめい》の部屋もあれば、好いお薬もある。明日にも姉さんが行きさえすれば、入れるばかりにして来ました。保養にでも出掛けるつもりで行って見たら、どうです」
「熊吉や、そんなことを言わないで、小さな家でも一軒借りることを心配してくれよ。俺は病院なぞへ入る気には成らんよ」
「しかし姉さんだっても、いくらか悪いぐらいには自分でも思うんでしょう。すっかり身体を丈夫にして下さい。家を借りる相談なぞは、その上でも遅かありません」
「いや、どうしても俺は病院へ行くことは厭《いや》だ」
 こう言っておげんは聞入れなかった。
「ああああ、そんなつもりでわざわざ国から出て来《こ》すか」
 とまた附けたした。
 しかし、熊吉は姉の養生園行を見合せないのみか、その翌日の午後には自分でも先《ま》ず姉を見送る支度《したく》をして、それからおげんのところへ来た。熊吉は姉の前に手をついて御辞儀した。それほどにして勧めた。おげんはもう嘆息してしまって、肉親の弟が入れというものなら、それではどうも仕方がないと思った。おげんはそこに御辞儀した弟の頭を一つぴしゃんと擲《なぐ》って置いて、弟の言うことに従った。
 その足でおげんは小間物屋の二階を降りた。入院の支度するために直次の家へと戻った。彼女はトボケでもしないかぎり、どの面《つら》をさげて、そんな養生園へ行かれようと考えた。丁度、国から持って来た着物の中には、胴だけ剥《は》いで、別の切地《きれ》をあてがった下着があった。丹精して造ったもので、縞柄《しまがら》もおとなしく気に入っていた。彼女はその下着をわざと風変りに着て、その上に帯を締めた。
 直次の娘から羽織も掛けて貰《もら》って、ぶらりと二番目の弟の家を出たが、とかく、足は前へ進まなかった。
 小間物屋のある町角で、熊吉は姉を待合せていた。そこには腰の低い小間物屋のおかみさんも店の外まで出て、おげんの近づくのを待っていて、
「御隠居さま、どうかまあ御機嫌《ごきげん》よう」
 と手を揉《も》み揉み挨拶した。
 熊吉は往来で姉の風体《ふうてい》を眺めて、子供のように噴飯《ふきだ》したいような顔付を見せたが、やがて連立って出掛けた。町で行逢う人達はおげんの方を振返り振返りしては、いずれも首を傾《かし》げて行った。それを知る度におげんはある哀《かな》しい快感をさえ味わった。漠然とした不安の念が、憂鬱《ゆううつ》な想像に混って、これから養生園の方へ向おうとするおげんの身を襲うように起って来た。町に遊んでいた小さな甥達の中にはそこいらまで一緒に随《つ》いて来るのもあった。おげんは熊吉の案内で坂の下にある電車の乗場から新橋手前まで乗った。そこには直次が姉を待合せていた。直次は熊吉に代って、それから先は二番目の弟が案内した。
 小石川の高台にある養生園がこうしたおげんを待っていた。最後の「隠れ家」を求めるつもりで国を出てきたおげんはその養生園の一室に、白い制服を着た看護婦などの廊下を往来する音の聞えるところに、年老いた自分を見つけるさえ夢のようであった。病室は長い廊下を前にして他の患者の居る方へ続いている。窓も一つある。あのお新を相手に臥《ね》たり起きたりした小山の家の奥座敷に比べると、そこで見る窓はもっと深かった。
 養生園に移ってからのおげんは毎晩薬を服《の》んで寝る度に不思議な夢を辿《たど》るように成った。病室に眼がさめて見ると、生命のない器物にまで陰と陽とがあった。はずかしいことながら、おげんはもう長いこと国の養子夫婦の睦《むつ》ましさに心を悩まされて、自分の前で養子の噂《うわさ》をする何でもない娵《よめ》の言葉までが妬《ねた》ましく思われたこともあった。今度東京へ出て来て直次の養母などに逢って見ると、あの年をとっても髪のかたちを気にするようなおばあさんまでが恐ろしい洒落者《しゃれもの》に見えた。皆《みんな》、化物だと、おげんは考えた。熊吉の義理ある甥《おい》で、おげんから言えば一番目の弟の娘の旦那にあたる人が逢いに来てくれた時にすら、おげんはある妬《ねた》ましさを感じて、あの弟の娘はこんな好い旦那を持つかとさえ思ったこともあった。そのはずかしい心持で病室の窓から延び上って眺めると、時には庭掃除をする男がその窓の外へ来た。おげんはそんな落葉を掃き寄せる音の中にすら、女を欺《だま》しそうな化物を見つけて、延び上り延び上り眺め入って、自分で自分の眼を疑うこともあった。
 ある夕方が来た。おげんはこの養生園へ来てから最早幾日を過したかということもよく覚えなかった。廊下づたいに看護婦の部屋の側を通って、黄昏時《たそがれどき》の庭の見える硝子《ガラス》の近くへ行って立った。あちこちと廊下を歩き廻っている白い犬がおげんの眼に映った。狆《ちん》というやつで、体躯《からだ》つきの矮小《ちいさ》な割に耳の辺から冠《かぶ》さったような長い房々とした毛が薄暗い廊下では際立って白く見えた。丁度そこへ三十五六ばかりになる立派な婦人の患者が看護婦の部屋の方から廊下を通りかかった。この婦人の患者はある大家から来ていて、看護婦はじめ他の患者まで、「奥様、奥様」と呼んでいた。
「お通り下さい」
 とおげんは奥様の方へ右の手をひろげ
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