て見せた。その時、奥様はすこしうつ向き勝ちに、おげんの立っている前を考え深そうな足どりで静かに通り過ぎた。見ると、そこいらに遊んでいた犬が奥様の姿を見つけて、長い尻尾《しっぽ》を振りながら後を追った。
「小山さん、お部屋の方へお膳が出ていますよ」
と呼ぶ看護婦の声に気がついて、おげんはその日の夕飯をやりに自分の部屋へ戻った。
廊下を歩む犬の足音は、それからおげんの耳につくように成った。看護婦が早く敷いてくれる床の中に入って、枕に就《つ》いてからも、犬の足音が妙に耳についてよく眠られなかった。おげんは小さな獣の足音を部屋の障子の外にも、縁の下にも聞いた。彼女はあの奥様の眠っている部屋の床板の下あたりを歩き廻る白い犬のかたちを想像でありありと見ることも出来た。八つ房という犬に連添って八人の子を産んだという伏姫《ふせひめ》のことなぞが自然と胸に浮んで来た。おげんはまだ心も柔く物にも感じ易《やす》い若い娘の頃に馬琴の小説本で読み、北斎の※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]画《さしえ》で見た伏姫の物語の記憶を辿って、それをあの奥様に結びつけて想像して見た。
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