かして旦那の心をもう一度以前の妻子の方へ引きかへさせたい。その下心でおげんは東京の地を踏んだが、あの伜の家の二階で二人の弟の顔を見比べ、伜夫婦の顔を見比べた時は、おげんは空《むな》しく国へ引返すより外に仕方がないと思った。二番目の弟の口の悪いのも畢竟《つまり》姉を思ってくれるからではあったろうが、しまいにはおげんの方でも耐《こら》えきれなくなって、「そう後家、後家と言って貰うまいぞや」と言い返して見せたのも、あの二階だ。そうしたら弟の言草は、「この婆《ばば》サも、まだこれで色気がある」と。あまり憎い口を弟がきくから、「あるぞい――うん、ある、ある」そう言っておげんは皆に別れを告げて来た。待っても、待っても、旦那はあれから帰って来なかった。国の方で留守居するおげんが朝夕の友と言えば、旦那の置いて行った机、旦那の置いて行った部屋、旦那のことを思い二人の子のことを思えば濡《ぬ》れない晩はなかったような冷たい閨《ねや》の枕――
回想は又、広い台所の炉辺《ろばた》の方へもおげんの心を連れて行って見せた。高い天井からは炉の上に釣るした煤《すす》けた自在鍵《じざいかぎ》がある。炉に焚《た》く火はあ
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