かあかと燃えて、台所の障子にも柱にも映っている。いそいそと立ち働くお新が居る。下女が居る。養子も改まった顔付で奥座敷と台所の間を往ったり来たりしている。時々|覗《のぞ》きに来る三吉も居る。そこへおげんの三番目の弟に連れられて、しょんぼりと表口から入って来た人がある。この人が十年も他郷で流浪した揚句に、遠く自分の生れた家の方を指して、年をとってから帰って来たおげんの旦那だ。弟は養子の前にも旦那を連れて御辞儀に行き、おげんの前へも御辞儀に来た。その頃は伜はもうこの世に居なかった。到頭旦那も伜の死目に逢わずじまいであったのだ。伜の娵も暇を取って行った。「御霊《みたま》さま」はまだ自分等と一緒に居て下さるとおげんが思ったのは、旦那にお新を逢わせることの出来た時だった。けれども、これほどのおげんの悦びもそう長くは続かなかった。持って生れた旦那の性分はいくつに成っても変らなかった。旦那が再び自分の生れた家の門を潜《くぐ》る時は、日が暮れてからでなければそれが潜れなかった。そんな思いまでして帰って来た旦那でも、だんだん席が温まって来る頃には茶屋酒の味を思出して、復た若い芸者に関係したという噂《うわさ
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