る養生園がこうしたおげんを待っていた。最後の「隠れ家」を求めるつもりで国を出てきたおげんはその養生園の一室に、白い制服を着た看護婦などの廊下を往来する音の聞えるところに、年老いた自分を見つけるさえ夢のようであった。病室は長い廊下を前にして他の患者の居る方へ続いている。窓も一つある。あのお新を相手に臥《ね》たり起きたりした小山の家の奥座敷に比べると、そこで見る窓はもっと深かった。
 養生園に移ってからのおげんは毎晩薬を服《の》んで寝る度に不思議な夢を辿《たど》るように成った。病室に眼がさめて見ると、生命のない器物にまで陰と陽とがあった。はずかしいことながら、おげんはもう長いこと国の養子夫婦の睦《むつ》ましさに心を悩まされて、自分の前で養子の噂《うわさ》をする何でもない娵《よめ》の言葉までが妬《ねた》ましく思われたこともあった。今度東京へ出て来て直次の養母などに逢って見ると、あの年をとっても髪のかたちを気にするようなおばあさんまでが恐ろしい洒落者《しゃれもの》に見えた。皆《みんな》、化物だと、おげんは考えた。熊吉の義理ある甥《おい》で、おげんから言えば一番目の弟の娘の旦那にあたる人が逢いに来てくれた時にすら、おげんはある妬《ねた》ましさを感じて、あの弟の娘はこんな好い旦那を持つかとさえ思ったこともあった。そのはずかしい心持で病室の窓から延び上って眺めると、時には庭掃除をする男がその窓の外へ来た。おげんはそんな落葉を掃き寄せる音の中にすら、女を欺《だま》しそうな化物を見つけて、延び上り延び上り眺め入って、自分で自分の眼を疑うこともあった。
 ある夕方が来た。おげんはこの養生園へ来てから最早幾日を過したかということもよく覚えなかった。廊下づたいに看護婦の部屋の側を通って、黄昏時《たそがれどき》の庭の見える硝子《ガラス》の近くへ行って立った。あちこちと廊下を歩き廻っている白い犬がおげんの眼に映った。狆《ちん》というやつで、体躯《からだ》つきの矮小《ちいさ》な割に耳の辺から冠《かぶ》さったような長い房々とした毛が薄暗い廊下では際立って白く見えた。丁度そこへ三十五六ばかりになる立派な婦人の患者が看護婦の部屋の方から廊下を通りかかった。この婦人の患者はある大家から来ていて、看護婦はじめ他の患者まで、「奥様、奥様」と呼んでいた。
「お通り下さい」
 とおげんは奥様の方へ右の手をひろげて見せた。その時、奥様はすこしうつ向き勝ちに、おげんの立っている前を考え深そうな足どりで静かに通り過ぎた。見ると、そこいらに遊んでいた犬が奥様の姿を見つけて、長い尻尾《しっぽ》を振りながら後を追った。
「小山さん、お部屋の方へお膳が出ていますよ」
 と呼ぶ看護婦の声に気がついて、おげんはその日の夕飯をやりに自分の部屋へ戻った。
 廊下を歩む犬の足音は、それからおげんの耳につくように成った。看護婦が早く敷いてくれる床の中に入って、枕に就《つ》いてからも、犬の足音が妙に耳についてよく眠られなかった。おげんは小さな獣の足音を部屋の障子の外にも、縁の下にも聞いた。彼女はあの奥様の眠っている部屋の床板の下あたりを歩き廻る白い犬のかたちを想像でありありと見ることも出来た。八つ房という犬に連添って八人の子を産んだという伏姫《ふせひめ》のことなぞが自然と胸に浮んで来た。おげんはまだ心も柔く物にも感じ易《やす》い若い娘の頃に馬琴の小説本で読み、北斎の※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]画《さしえ》で見た伏姫の物語の記憶を辿って、それをあの奥様に結びつけて想像して見た。この想像から、おげんはいいあらわし難い恐怖を誘われた。
「小山さん、弟さんですよ」
 と、ある日、看護婦が熊吉を案内して来た。おげんは待ち暮らした弟を、自分の部屋に見ることが出来た。
「今日は江戸川の終点までやって来ましたら、あの電車を降りたところに私の顔を知った車夫が居ましてね、しきりに乗れ、乗れって勧めましたっけ。今日はここまで歩きました」
 こう熊吉は言って、姉の見舞に提《さ》げて来たという菓子折をそこへ取出した。
「静かなところじゃ有りませんか。」
 とまた弟は姉のために見立てた養生園がさも自分でも気に入ったように言って見せた。
「どれ、何の土産《みやげ》をくれるか、一つ拝見せず」
 とおげんは新しい菓子折を膝《ひざ》に載せて、蓋《ふた》を取って見た。病室で楽しめるようにと弟の見立てて来たらしい種々な干菓子がそこへ出て来た。この病室に置いて見ると、そんな菓子の中にも陰と陽とがあった。おげんはそれを見て、笑いながら、
「こないだ、お玉が見舞に来てくれた時のお菓子が残っているで、これは俺がまた後で、看護婦さんにも少しずつ分けてやるわい」
 お玉とは、おげんが一番目の弟の宗太の娘の名
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