たが、ふと気がつくと、熊吉はまだ起きて自分の側に坐っていた。彼女はおよそ何時間ぐらいその床の上に呻《うめ》き続けたかもよく覚えなかった。唯、しょんぼりと電燈のかげに坐っているような弟の顔が彼女の眼に映った。
翌日は熊吉もにわかに奔走を始めた。おげんは弟が自分のために心配して家を出て行ったことを感づいたが、弟の行先が気になった。ずっと以前に一度、根岸の精神病院に入れられた時の厭《いと》わしい記憶がおげんの胸に浮んだ。旦那も国から一緒に出て来た時だった。その時にも彼女の方では、どうしてもそんな病院などには入らないと言い張ったが、旦那が入れと言うものだから、それではどうも仕方がないとあきらめて、それから一年ばかりをあの病院に送って来たことがある。その時の記憶が復《ま》た帰って来た。おげんはあの牢獄《ろうごく》も同様な場所に身を置くということよりも、狂人《きちがい》の多勢居るところへ行って本物のキ印を見ることを恐れた。午後に、熊吉は小石川方面から戻って来た。果して、弟は小間物屋の二階座敷におげんと差向いで、養生園というところへ行ってきたことを言い出した。江戸川の終点まで電車で乗って行くだけでもなかなか遠かったと話した。
「それは御苦労さま。ゆうべもお前は遅くまで起きて俺の側に附いていてくれたのい。お気の毒だったぞや」
こうおげんの方から言うと、熊吉は、額のところに手をあてて、いくらか安心したような微笑《えみ》を見せた。
「俺にそんなところへ入れという話なら、真平《まっぴら》」とまたおげんが言った。「俺はそんな病人ではないで。何だかそんなところへ行くと余計に悪くなるような気がするで」
「姉さんはそういうけれど、私の勧めるのは養生園ですよ。根岸の病院なぞとは、病院が違います。そんなに悪くない人が養生のために行くところなんですから、姉さんには丁度好かろうかと思うんです。今日は私も行って見て来ました。まるで普通の家でした。そこに広い庭もあれば、各自《めいめい》の部屋もあれば、好いお薬もある。明日にも姉さんが行きさえすれば、入れるばかりにして来ました。保養にでも出掛けるつもりで行って見たら、どうです」
「熊吉や、そんなことを言わないで、小さな家でも一軒借りることを心配してくれよ。俺は病院なぞへ入る気には成らんよ」
「しかし姉さんだっても、いくらか悪いぐらいには自分でも思うんでしょう。すっかり身体を丈夫にして下さい。家を借りる相談なぞは、その上でも遅かありません」
「いや、どうしても俺は病院へ行くことは厭《いや》だ」
こう言っておげんは聞入れなかった。
「ああああ、そんなつもりでわざわざ国から出て来《こ》すか」
とまた附けたした。
しかし、熊吉は姉の養生園行を見合せないのみか、その翌日の午後には自分でも先《ま》ず姉を見送る支度《したく》をして、それからおげんのところへ来た。熊吉は姉の前に手をついて御辞儀した。それほどにして勧めた。おげんはもう嘆息してしまって、肉親の弟が入れというものなら、それではどうも仕方がないと思った。おげんはそこに御辞儀した弟の頭を一つぴしゃんと擲《なぐ》って置いて、弟の言うことに従った。
その足でおげんは小間物屋の二階を降りた。入院の支度するために直次の家へと戻った。彼女はトボケでもしないかぎり、どの面《つら》をさげて、そんな養生園へ行かれようと考えた。丁度、国から持って来た着物の中には、胴だけ剥《は》いで、別の切地《きれ》をあてがった下着があった。丹精して造ったもので、縞柄《しまがら》もおとなしく気に入っていた。彼女はその下着をわざと風変りに着て、その上に帯を締めた。
直次の娘から羽織も掛けて貰《もら》って、ぶらりと二番目の弟の家を出たが、とかく、足は前へ進まなかった。
小間物屋のある町角で、熊吉は姉を待合せていた。そこには腰の低い小間物屋のおかみさんも店の外まで出て、おげんの近づくのを待っていて、
「御隠居さま、どうかまあ御機嫌《ごきげん》よう」
と手を揉《も》み揉み挨拶した。
熊吉は往来で姉の風体《ふうてい》を眺めて、子供のように噴飯《ふきだ》したいような顔付を見せたが、やがて連立って出掛けた。町で行逢う人達はおげんの方を振返り振返りしては、いずれも首を傾《かし》げて行った。それを知る度におげんはある哀《かな》しい快感をさえ味わった。漠然とした不安の念が、憂鬱《ゆううつ》な想像に混って、これから養生園の方へ向おうとするおげんの身を襲うように起って来た。町に遊んでいた小さな甥達の中にはそこいらまで一緒に随《つ》いて来るのもあった。おげんは熊吉の案内で坂の下にある電車の乗場から新橋手前まで乗った。そこには直次が姉を待合せていた。直次は熊吉に代って、それから先は二番目の弟が案内した。
小石川の高台にあ
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