ここは根岸の病院じゃありませんか。あなたが一度いらしったところじゃ有りませんか」
 おげんは中年の看護婦と言葉をかわして見て、電気にでも打たれるような身ぶるいが全身を通り過ぎるのを覚えた。
 翌朝になると、おげんは多勢の女の患者ばかりごちゃごちゃと集まって臥《ね》たり起きたりする病院の大広間に来ていた。夢であってくれればいいと思われるような、異様な感じを誘う年とった婦人や若い婦人がそこにもここにもごろごろして思い思いの世界をつくっていた。その時になって見て、おげんはあの小石川の養生園から誘い出されたことも、自分をここの玄関先まで案内して来た姪のお玉が何時の間にか姿を隠したことも、一層はっきりとその意味を読んだ。
「しまった」
 とおげんは心に叫んだが、この時は最早追付かなかった。
 見ず知らずの人達と一緒ではあるが患者同志が集団として暮して行くこと、旧《ふる》い馴染《なじみ》の看護婦が二人までもまだ勤めていること、それに一度入院して全快した経験のあること――それらが一緒になって、おげんはこの病院に移った翌日から何となく別な心地《こころもち》を起した。勝手を知ったおげんは馴染も薄い患者ばかり居る大広間から抜け出して、ある特別な精神病者を一人置くような室の横手から、病院の広い庭の見える窓の方へ歩いて行って見た。立派な丸髷《まるまげ》に結った何処かの細君らしい婦人で、新入の患者仲間を迎え顔におげんの方へ来て、何か思いついたように恐ろしく丁寧なお辞儀をして行くのもあった。
 寒い静かな光線はおげんの行く廊下のところへ射して来ていて、何となく気分を落着かせた。その突当りには、養生園の部屋の方で見つけたよりもっと深い窓があった。
「俺はこんなところへ来るような病人とは違うぞい。どうして俺をこんなところへ入れたか」
「さあ、俺にも分らん」
 おげんの中に居る二人の人は窓の側でこんな話を始めた。
「熊吉はどうした」
「熊吉も、どうぞお願いだから、俺に入っていてくれと言うげな」
「小山の養子はどうした」
「養子か。あれも、俺に出て来て貰っては困ると言うぞい」
「直次はどうした」
「あれもそうだ」
「お玉はどうした」
「あれは俺を欺して連れて来て置いて」
「みんなで寄ってたかって俺を狂人《きちがい》にして、こんなところへ入れてしまった。盲目《めくら》の量見ほど悲しいものはないぞや」
 
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