おげんは嘆息してしまった。あの車夫がこの玄関先で祝ってくれた言葉、「御隠居さん、今日はお目出とうございます」はおげんの耳に残っていて、冷たかった。どうして自分はこんなところへ来なければ成らなかったか、それを考えておげんは自分で自分を疑った。
晩年を暗い座敷牢の中で送った父親のことがしきりとおげんの胸に浮んで来た。父の最後を思う度におげんは何処までも気を確かに持たねば成らないと考えた。どうかしてあの父のようには成って行きたくないと考えた。それにはなるべく父のことに触らないように。同じ思出すにしても、父の死際《しにぎわ》のことには触らないように。これはもう長い年月の間、おげんが人知れず努めて来たことであった。生憎《あいにく》とその思出したばかりでも頭脳《あたま》の痛くなるようなことが、しきりに気に掛った。ある日も、おげんは廊下の窓のところで何時の間にか父の前に自分を持って行った。
青い深い竹藪《たけやぶ》がある。竹藪を背にして古い米倉がある。木小屋がある。その木小屋の一部に造りつけた座敷牢の格子がある。そこがおげんの父でも師匠でもあった人の晩年を過したところだ。おげんは小山の家の方から、発狂した父を見舞いに行ったことがある。父は座敷牢に入っていても、何か書いて見たいと言って、紙と筆を取寄せて、そんなに成っても物を書くことを忘れなかった。「おげん、ここへ来さっせれ、一寸《ちょっと》ここへ来さっせれ」と父がしきりに手招きするから、何か書いたものでも見せるのかと思って、行くと、父は恐ろしい力でおげんを捉《つかま》えようとして、もうすこしでおげんの手が引きちぎられるところであった。父は髭《ひげ》の延びた蒼《あお》ざめた顔付で、時には「あはは、あはは」笑って、もうさんざん腹を抱えて反《そ》りかえるようにして、笑って笑い抜いたかと思うと、今度は暗い座敷牢の格子に取りすがりながら、さめざめと泣いた。
「お父さま――お前さまの心持は、この俺にはよく解るぞなし。俺もお前さまの娘だ。お前さまに幼少《ちいさ》な時分から教えられたことを忘れないばかりに――俺もこんなところへ来た」
おげんはそこに父でも居るようにして、独りでかき口説《くど》いた。狂死した父をあわれむ心は、眼前《めのまえ》に見るものを余計に恐ろしくした。彼女は自分で行きたくない行きたくないと思うところへ我知らず引き込まれて行
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