、何処までが夢の中に消えていくような親戚の幻影《まぼろし》であるのか、その差別もつけかねた。幾度となくおげんはお玉の顔をよく見た。最早二人の子持になるとは言っても変らず若くているような姪の顔をよく見た。そのうちに、看護婦はお玉の方で頼んだ分をも一緒に、膳を二つそこへ運んで来た。おげんはめずらしい身ぶるいを感じた。二月か三月が二年にも三年にも当るような長い寂しい月日を養生園に送った後で、復《ま》た弟の側へ行かれる日の来たことは。
 食後に、お玉は退院の手続きやら何やらでいそがしかった。にわかにおげんの部屋も活気づいた。若い気軽な看護婦達はおげんが退院の手伝いするために、長い廊下を往ったり来たりした。
「小山さん、いよいよ御退院でお目出とうございます」
 と年嵩《としかさ》な看護婦長までおげんを見に来て悦んでくれた。
「では、伯母さん、御懇意になった方のところへ行ってお別れなすったらいいでしょうに。伯母さんのお荷物はわたしが引受けますから」
「そうせずか。何だか俺は夢のような気がするよ」
 おげんは姪とこんな言葉をかわして、そこそこに退院の支度をした。自分でよそゆきの女帯を締め直した時は次第に心の昂奮《こうふん》を覚えた。
「もうお俥《くるま》も来て待っておりますよ。そんなら小山さん、お気をつけなすって」
 という看護婦長の声に送られて、おげんは病室を出た。
 黒い幌《ほろ》を掛けた俥は養生園の表庭の内まで引き入れてあった。おげんが皆に暇乞《いとまご》いして、その俥に乗ろうとする頃は、屋外《そと》は真暗だった。霜にでも成るように寒い晩の空気はおげんの顔に来た。暗い庭の外まで出て見送ってくれる人達の顔や、そこに立つ車夫の顔なぞが病室の入口から射す燈火《あかり》に映って、僅《わず》かにおげんの眼に光って見えた。間もなくおげんを乗せた俥はごとごと土の上を動いて行く音をさせて養生園の門から離れて行った。
 町の燈火がちらちら俥の上から見えるまでに、おげんは可成《かなり》暗い静かな道を乗って行った。彼女は東京のような大都会のどの辺を乗って行くのか、何処へ向って行くのか、その方角すらも全く分らなかった。唯、幌の覗《のぞ》き穴を通して、お玉を乗せた俥の先に動いて行くのと、町の曲り角へでも来た時に前後の車夫が呼びかわす掛声とで、広々としたところへ出て行くことを感じた。さんざん飽きるほど
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