看護婦の言葉は果して人をこまらせる悪戯と思われた。あの奥様の後をよく追って歩いて長い裾《すそ》にまつわり戯れるような犬が庭にでも出て遊ぶ時と見えた。おげんは夢のような蒼《あお》ざめた光の映《あた》る硝子障子越しに、白い犬のすがたをありありと見た。
 寒い、寒い日が間もなくやって来るように成った。待っても、待っても、熊吉は姉を迎えに来てくれなかった。見舞に来る親戚の足も次第に遠くなって、直次も、直次の娘も、めったに養生園へは顔を見せなかった。おげんは小山の家の方で毎年漬物の用意をするように、病室の入口の部屋に近い台所に出ていた。彼女の心は山のように蕪菜《かぶらな》を積み重ねた流し許《もと》の方へ行った。青々と洗われた新しい蕪菜が見えて来た。それを漬ける手伝いしていると、水道の栓《せん》から滝のように迸《ほとばし》り出る水が流し許に溢《あふ》れて、庭口の方まで流れて行った。おげんは冷たい水に手を浸して、じゃぶじゃぶとかき廻していた。
 看護婦は驚いたように来て見て、大急ぎで水道の栓を止めた。
「小山さん、そんな水いじりをなすっちゃ、いけませんよ。御覧なさいな、お悪戯《いた》をなさるものだから、あなたの手は皸《ひび》だらけじゃありませんか」
 と看護婦に叱られて、おげんはすごすごと自分の部屋の方へ戻って行った。その夕方のことであった。おげんは独りでさみしく部屋の火鉢の前に坐っていた。
「小山さん、お客さま」
 と看護婦が声を掛けに来た。思いがけない宗太の娘のお玉がそこへ来てコートの紐を解いた。
「伯母さんはまだお夕飯前ですか」とお玉が訊《き》いた。
「これからお膳が出るところよのい」とおげんは姪《めい》に言って見せた。
「それなら、わたしも伯母さんと御一緒に頂くことにしましょう。わたしの分も看護婦さんに頼みましょう」
「お玉もめずらしいことを言出したぞや」
「実は伯母さん、今日は熊叔父さんのお使に上りましたんですよ。わたしが伯母さんのお迎えに参りましたんですよ」
 しばらくおげんは姪の顔を見つめたぎり、物も言えなかった。
「お玉はこのおばあさんを担《かつ》ぐつもりずらに」
 とおげんは笑って、あまりに突然な姪の嬉しがらせを信じなかった。
 しかし、お玉が迎えに来たことは、どうやら本当らしかった。悩ましいおげんの眼には、何処までが待ちわびた自分を本当に迎えに来てくれたもので
前へ 次へ
全35ページ中29ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング