だぞや。早く出すようにしてくれよ」
それを聞いて熊吉は起ちあがった。見舞いに来る親戚も、親戚も、きっと話の終りには看護婦に逢って行くことを持出して、何時の間にか姿を隠すように帰って行くのが、おげんに取っては可笑《おか》しくもあり心細くもあった。この熊吉が養生園の応接間の方から引返して来て、もう一度姉の部屋の外で声を掛けた時は、おげんもそこまで送りに出た。
多勢で広い入口の部屋に集まって、その日の新聞なぞをひろげている看護婦達の顔付も若々しかった。丁度そこへ例の奥様も顔を見せた。
「これが弟でございます」
とおげんは熊吉が編上げの靴の紐《ひも》を結ぶ後方《うしろ》から、奥様の方へ右の手をひろげて見せた。弟が出て行った後でも、しばらくおげんはそこに立ちつくした。
「きっと熊吉は俺を出しに来てくれる」
とおげんは独《ひと》りになってから言って見た。
翌朝、看護婦はおげんのために水薬の罎《びん》を部屋へ持って来てくれた。
「小山さん、今朝からお薬が変りましたよ」
という看護婦の声は何となくおげんの身にしみた。おげんは弟の置いて行った土産を戸棚から取出して、それを看護婦に分け、やがてちいさな声で、
「あの奥様の連れている犬が、わたしは恐くて、恐くて」
と言って見せた。看護婦は不思議そうにおげんの顔を眺めて、
「そんな犬なんか何処にも居ませんよ」
こう言って部屋を出て行った。
その時の看護婦の残して行った言葉には、思い疲れたおげんの心をびっくりさせるほどの力があった。
「俺もどうかしているわい」
思わずおげんはそこへ気がついた。しかし、あんなことを言って見せて悪戯好《いたずらず》きな若い看護婦が患者相手の徒然《つれづれ》を慰めようとするのだ、とおげんは思い直した。あの犬は誰の部屋へでも構わず入り込んで来るような奴だ。小さな犬のくせに、どうしてそんな人間の淫蕩《いんとう》の秘密を覚えたかと思われるような奴だ。亡くなった旦那が家出の当時にすら、指一本、人にさされたことのないほど長い苦節を守り続けて来た女の徳までも平気で破りに来ようという奴だ。そう考えると、おげんはこの養生園に居ることが遽《にわか》に恐ろしくなった。夕方にでもなって、他の患者が長い廊下をあちこちと歩いている時に、養生園の庭の見える硝子障子のところへ立って見ると、「そんな犬なんか居ませんよ」と言った
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