だ。お玉夫婦は東京に世帯《しょたい》を持っていたが、宗太はもう長いこと遠いところへ行っていた。おげんはその宗太の娘から貰った土産の蔵《しま》ってある所をも熊吉に示そうとして、部屋の戸棚《とだな》についた襖《ふすま》までも開けて見せた。それほどおげんには見舞に来てくれる親戚がうれしかった。おげんは又、弟からの土産を大切にして、あちこちと部屋の中を持ち廻った。
「熊吉や」とおげんは声を低くして、「この養生園には恐い奥様がいるぞや。患者の中で、奥様が一番こわい人だぞや。多分お前も廊下で見掛けただらず。奥様が犬を連れていて、その犬がまた気味の悪い奴よのい。誰の部屋へでも這入《はい》り込んで行く。この部屋まで這入って来る。何か食べる物でも置いてやらないと、そこいら中あの犬が狩りからかす」
と言いかけて、おげんは弟の土産の菓子を二つ三つ紙の上に載せ、それを部屋の障子の方へ持って行った。しばらくおげんは菓子を手にしたまま、障子の側に立って、廊下を通る物音に耳を澄ました。
「今に来るぞや。あの犬が嗅《か》ぎつけて来るぞや。こうしてお菓子を障子の側に置きさえすれば、もう大丈夫」
おげんは弟に笑って見せた。その笑いはある狡猾《こうかつ》な方法を思いついたことを通わせた。彼女は敷居の近くにその菓子を置いて、忍び足で弟の側へ寄った。
「姉さん、障子をしめて置いたら、そんな犬なんか入って来ますまいに」と熊吉は言った。
「ところが、お前、どんな隙間《すきま》からでも入って来る奴だ。何時《いつ》の間にか忍び込んで来るような奴だ。高い声では言われんが、奥様が産んだのはあの犬の子だぞい。俺はもうちゃんと見抜いている――オオ、恐《こわ》い、恐い」
とおげんはわざと身をすぼめて、ちいさくなって見せた。
熊吉は犬の話にも気乗りがしないで、他に話題をかえようとした。弟はこの養生園の生活のことで、おげんの方で気乗りのしないようなことばかり話したがった。でもおげんは弟を前に置いて、対《むか》い合っているだけでも楽みに思った。
やがて熊吉はこの養生園の看護婦長にでも逢って、姉のことをよく頼んで行きたいと言って、座を起《た》ちかけた。
「熊吉、そんなに急がずともよからず」
とおげんは言って、弟を放したくなかった。
彼女は無理にも引留めたいばかりにして、言葉をついだ。
「こんなところへ俺を入れたのはお前
前へ
次へ
全35ページ中27ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング