いよ。お前は直次と二人で心配してくれ。頼むに。月に三四十円もあったら俺は暮らせると思う」
「そんなことで姉さんが遣《や》って行けましょうか。姉さんはくら有っても足りないような人じゃないんですか」
「莫迦《ばか》こけ。お前までそんなことを言う。なんでもお前達は、俺が無暗とお金を使いからかすようなことを言う。俺に小さな家でも持たして御覧。いくら要らすか」
「どっちにしても、あなたのところの養子にも心配させるが好うござんすサ」
「お前はそんな暢気《のんき》なことを言うが、旦那が亡くなった時に俺はそう思った――俺はもう小山家に縁故の切れたものだと思った――」
おげんは弟の仕事部屋に来て、一緒にこんな話をしたが、直次の家の方へ帰って行く頃は妙に心細かった。今度の上京を機会に、もっと東京で養生して、その上で前途の方針を考えることにしたら。そういう弟の意見には従いかねていた。熊吉は帰朝早々のいそがしさの中で、姉のために適当な医院を問合せていると言ったが、自分はそんな病人ではないとおげんは思った。彼女は年と共に口ざみしかったので、熊吉からねだった小遣《こづかい》で菓子を仕入れて、その袋を携えながら小さな甥達の側へ引返して行った。
「太郎も来いや。次郎も来いや。お前さん達があの三吉をいじめると、このおばあさんが承知せんぞい」
とおげんは戯れて、町で買った甘い物を四人の子供に分け、自分でもさみしい時の慰みにした。
上京して一週間ばかり経つうち、おげんはあの蜂谷の医院で経験して来たと同じ心持を直次の家の方でも経験するように成った。「姉さん、姉さん」と直次が言って姉をいたわってくれるほどには、直次の養母や、直次が連合のおさだの受けは何となく好くなかった。おげんは弟の連合が子供の育て方なぞを逐一よく見て、それを母親としての自分の苦心に思い比べようとした。多年の経験から来たその鋭い眼を家の台所にまで向けることは、あまりおさだに悦ばれなかった。
「姉さんはお料理のことでも何でもよく知っていらっしゃる。わたしも姉さんに教えて頂きたい」
とおさだはよく言ったが、その度におさだの眼は光った。
台所は割合に広かった。裏の木戸口から物置の方へ通う空地は台所の前にもいくらかの余裕を見せ、冷々とした秋の空気がそこへも通って来ていた。おげんはその台所に居ながらでも朝顔の枯葉の黄ばみ残った隣家の垣根や、
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