沢山な蜻蛉《とんぼ》が秋の空気の中を飛んでいた。熊吉が姉を連れて行って見せたところは、直次の家から半町ほどしか離れていないある小間物屋の二階座敷で、熊吉は自分用の仮の仕事場に一時そこを借りていた。そこから食事の時や寝る時に直次の家の方へ通うことにしてあった。
「でも秋らしくなりましたね。駒形の家を思出しますね」
と弟は言った。駒形の家とは、おげんの亡くなった伜《せがれ》が娵《よめ》と一緒にしばらく住んだ家で、おげんに取っても思出の深いところであった。
「どうかすると私はまだ船にでも揺られているような気のすることも有りますよ。直さんの家の廊下が船の甲板で、あの廊下から見える空が海の空で、家ごと動いているような気のして来ることも有りますよ」
とまた弟はおげんに言って見せて、更に言葉をつづけて、
「姉さんも今度出ていらしって見て、おおよそお解りでしょう。直さんの家でも骨の折れる時ですよ。それは倹約にして暮してもいます。そういうことを想って見なけりゃ成りません。私も東京に自分の家でも見つけましたら、そりゃ姉さんに来て頂いてもようござんす。もう少し気分を落着けるようにして下さい」
「落着けるにも、落着けないにも、俺は別に何処《どこ》も悪くないで」とおげんの方では答えた。「唯、何かこう頭脳《あたま》の中に、一とこ引ッつかえたようなところが有って、そこさえ直れば外にもう何処も身体に悪いところはないで」
「そうですかなあ」
「俺を病人と思うのが、そもそも間違いだぞや」
「なにしろ、あなたのところの養子もあの通りの働き手でしょう。あの養子を助けて、家の手伝いでもして、時には姉さんの好きな花でも植えて、余生を送るという気には成れないものですかなあ」
「熊吉や、それは自分の娘でも満足な身体で、その娘に養子でもした人に言うことだぞや。あの旦那が亡くなってから、俺はもう小山の家に居る気もしなくなったよ。それに、お新のような娘を持って御覧。まあ俺のような親の身になって見てくれよ。お前のとこの細君も、まだ達者でいる時分に、この俺に言ったことが有るぞや。『どんなに自分は子供が多勢あっても、自分の子供を人にくれる気には成らない』ッて。それ見よ、女というものはそういうものだぞ。うん、そこだ――そこだ――それだによって、どんな小さな家でもいいから一軒東京に借りて貰《もら》って、俺はお新と二人で暮した
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