ふ》までは。思へば今日《けふ》までは怪《あや》しく過ぎにけり。いつのまに春は過ぎつゝ夏も亦た、あしたの宿《やど》をいかにせむ。
 とは見る人の杞憂《うれひ》にて、蝴蝶はひたすら花を尋ね舞ふ。西へ行くかと見れば東《ひがし》へかへり、東へ飛んでは西へ舞ひもどる。うしろの庭をあさりめぐりて前なる池を一とまはり。秋待顏《あきまちがほ》の萩の上葉《うはば》にいこひもやらず、けさのあはれのあさがほにふたゝび三《み》たび羽《は》をうちて再《ま》た飛び去りて宇宙《ちう》に舞ふ。
 たれか宇宙《ちう》に迷はぬものやあらむ。あしたの雨|夕《ゆふ》べの風|何《いづ》れ心をなやめぬものやあるべき。わびしく舞へるゆふべの蝶よひとりなるはいましのみかは。われもさびしくこの夏の、たそがれの景色《けしき》に惑《まど》ふてあるものを。
 秋風《あきかぜ》の樹葉《このは》をからさんはあすのこと。野も里もなべてに霜の置き布《し》けば草のいのちも消えつきて、いましが宿もなかるべし。花をあさるは今のまの、あはれ浮世の夢なりけり。黄金《わうごん》積むもの、權威《ちから》あるもの、たゞしは玉のかんばせの佳人《たをやめ》とても、この夢に、もるゝはあらじ、あなおろかや。
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  ゆきだふれ


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病床にありての作なるからに調《てう》も想《さう》も常にまして整はざるところ多し。讀者の寛恕を乞ふになむ。
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○瘠せにやせたるそのすがた、
 枯れにかれたるそのかたち、
   何を病みてかさはかれし、
   何をなやみて左《さ》はやせし。
○みにくさよ、あはれそのすがた、
 いたましや、あはれそのかたち、
   いづくの誰れぞ何人《なにびと》ぞ。
   里はいづくぞ、どのはてぞ。
○親はあらずや子もあらずや、
 妻もあらずや妹《いも》もあらずや、
   あはれこの人もの言はず、
   ものを言はぬは唖ならむ。
○唖にもあらぬ舌あらば、
 いかにたびゞとかたらずや。
   いづくの里を迷ひ出《で》て、
   いづくの里に行くものぞ。

   〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

○いづこよりいづこへ迷ふと、
 たづぬる人のあはれさよ。
   家ありと思ひ里ありと、
   定むる人のおろかさよ。
○迷はぬはれを迷ふとは。
 迷へる人のあさましさ。
   親も兒も妻も妹《いもと》も持たざれば、
   闇のうきよにちなみもあらず。
○みにくしと笑ひたまへど、
 いたましとあはれみたまへど、
   われは形《かたち》のあるじにて、
   形《かたち》はわれのまらうどなれ。
○かりのこの世のかりものと、
 かたちもすがたも捨てぬとは、
   知らずやあはれ、浮世人《うきよびと》、
   なさけあらばそこを立去りね。

   〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

○こはめづらしきものごひよ、
 唖にはあらでものしりの、
   乞食《こつじき》のすがたして來たりけり。
   いな乞食《こつじき》の物知顏ぞあはれなる。
○誰れかれと言ひあはしつ、
 物をもたらし、つどひしに、
   物は乞はずに立去れと、
   言ふ顏《つら》にくしものしりこじき。
○里もなく家もなき身にありながら、
 里もあり家もある身をのゝしるは、
   をこなる心のしれものぞ、
   乞食《こつじき》のものしりあはれなり。
○世にも人にもすてられはてし、
   恥らふべき身を知るや知らずや、
   浮世人とそしらるゝわれらは、
   汝《いまし》が友ならず、いざ行かなむ。

   〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

○里の兒等のさてもうるさや、
 よしなきことにあたら一夜《ひとや》の、
   月のこゝろに背きけり、
   うち見る空のうつくしさよ。
○いざ立ちあがり、かなたなる、
 小山《こやま》の上の草原《くさはら》に、
   こよひの宿をかりむしろ、
   たのしく月と眠らなむ。
○立たんとすれば、あしはなえたり、
 いかにすべけむ、ふしはゆるめり、
   そこを流るゝ清水《しみづ》さへ、
   今はこの身のものならず。
○かの山までと思ひしも、
 またあやまれる願ひなり。
   西へ西へと行く月も、
   山の端《は》ちかくなりにけり。

   〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

○むかしの夢に往來《ゆきゝ》せし、
 榮華の里のまぼろしに、
   このすがたかたちを寫しなば、
   このわれもさぞ哄笑《わら》ひつらむ。
○いまの心の鏡のうちに、
 むかしの榮華のうつるとき、
   そのすがたかたちのみにくきを、
   われは笑ひてあはれむなり。
○むかしを拙なしと言ふも晩《おそ》し、
 今をおこぞと言ふもむやくし。
   夢も鏡も天《あめ》も地《つち》も、
   いまのわが身をいかにせむ。
○物乞ふこともう
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