明治文学管見
(日本文学史骨)
北村透谷
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《》:ルビ
(例)如何《いか》なる
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(例)愛山先生|若《も》し
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(例)蠢々《しゆん/\》
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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一、快楽と実用
明治文学も既に二十六年の壮年となれり、此歳月の間に如何《いか》なる進歩ありしか、如何なる退歩ありしか、如何なる原素と如何なる精神が此文学の中に蟠《わだかま》りて、而して如何なる現象を外面に呈出したるか、是等の事を研究するは緊要なるものなり、而して今日まで未だ此範囲に於て史家の技倆を試みたるものはあらず、唯だ「国民新聞」の愛山生ありて、其の鋭利なる観察を此範囲に向けたるあるのみ。余は彼の評論に就きて満足すること能はざるところあるにも係らず、其気鋭く胆大にして、幾多の先輩を瞠若《だうじやく》せしむる技倆に驚ろくものなり。余や短才浅学にして、敢て此般《しはん》の評論に立入るべきものにあらねども、従来「白表女学雑誌」誌上にて評論の業に従事したる由来を以て、聊《いさゝ》か見るところを述べて、明治文学の梗概を研究せんと欲するの志あり。余が曩《さき》に愛山生の文章を評論したる事あるを以て、此題目に於て再び戦を挑まんの野心ありなど思はゞ、此上なき僻事《ひがごと》なるべし。之れ余が日本文学史骨を著はすに当りて、予《あらかじ》め読者に注意を請ふ一なり。
余は之れより日本文学史の一学生たらんを期するものにて、素《もと》より、この文学史を以て独占の舞台などゝせん心掛あるにはあらず、斯《か》く断りするは、曾《か》つて或人に誤まられたることあればなり、余は学生として、誠実に研究すべきことを研究せんとするものなれば、縦令《たとひ》如何なることありて他人の攻撃に遭ふことありとも、之に向つて答弁するものと必せず、又容易に他人の所論を難ずる等の事なかるべし。且つ美学及び純哲学に於て極めて初学なる身を以て、文学を論ずることなれば、其不都合なる事多かるべきは、呉々《くれ/″\》も予め断り置きたる事なり。加ふるに閑少なく、書籍の便なく、事実の蒐集《しうしふ》思ふに任せぬことのみなるべければ、独断的の評論をなす方に自然傾むき易きことも、亦《ま》た予め諒承あらんことを請ふになむ。
特に山路愛山先生に対して一言すべきことあり。爰《こゝ》にて是を言ふは奇《く》しと思ふ人あらんかなれど、余は元来余が為したる評論に就きて親切なる教示を望みたるものなるに、愛山君は余が所論以外の事に向て攻撃の位地に立たれ、少しも満足なる教示と見るべきはあらず、余は自ら受けたる攻撃に就きて云々するの必要を見ざれば、其儘に看過したり。本より、文学の事業なることは釈義といふ利刀を仮り来らずとも分明なることにして、文学が人生に渉るものなることは何人といへ雖《ども》、之を疑はぬなるべし。愛山先生|若《も》しこの二件を以て自らの新発見なりと思はゞ、余輩其の可なるを知らず。余は右の二件を難じたるものにあらず、余が今日の文学の為に、聊《いさゝ》か真理を愛するの心より、知交を辱《かたじけな》うする愛山君の所説を難じたるは、豈《あ》に虚空なる自負自傲《じふじがう》の念よりするものならんや。これを以て、余は愛山君の反駁《はんばく》に答ふることをせざりし。然るに豈図らんや、其他にも余が所論を難ぜんとしてか、或は他に為にする所ありてか、人生に相渉らざるべからずといふ論旨の分明に解得せらるゝ論文の、然も大家先生等の手に成りて出でしを見るに至らんとは。若し此事にして余が所説に対して、或は余が所説に動かされて、出でたるものなりとするを得ば、余は至幸至栄なるを謝するに吝《やぶさか》ならざるべし。然れども、極めて不幸なりと思ふは、余は是等の文章に対して返報するの権利[#「権利」に傍点]なきこと是なり。文学が人生に相渉るものなることは余も是を信ずるなり、恐らく天地間に、文学は人生に相渉るべからずと揚言する愚人は無かるべし。但し余が難じたるは、(1)[#「(1)」は縦中横]世を益するの目的を以て、(2)[#「(2)」は縦中横]英雄の剣を揮《ふる》ふが如くに、(3)[#「(3)」は縦中横]空《くう》の空を突かんとせずして、或|的《まと》を見て、(4)[#「(4)」は縦中横]華文妙辞を退けて、而《しか》して人生に相渉らざるべからずと論断したるを難じたるなり。故に余は以上の条件を備へざる人生相渉論ならば、奈何《いか》なる大家先生の所説なりとも、是に対して答弁するの権利[#「権利」に傍点]なきなり。然れども余自ら「山庵雑記」に言ひし如く、是非真偽は容易に皮相眼を以て判別すべきものならざるに、余が文章の踈雑《そざつ》なりしが為め、或は意気昂揚して筆したりしが為か、斯《かく》も誤読せらるゝに至りたるは極めて残念の事と思ふが故に、余は不肖を顧みず、浅膚《せんぷ》を厭はず、是より「評論」紙上に於て、出来得る丈誤読を免かるゝ様に、明治文学の性質を論ずるの栄を得んとす。之を為すは、本より愛山君の所説を再評するが為にはあらざるも、若し余が信ずるところに於て君の教示を促すべきことあらば、請ふ自ら寛《ゆる》うして、之を垂れよ。
余は先づ明治文学の性質を以て始めんとす。而して、明治文学の性質を知らんが為には、如何なる主義が其中に存するかを見ざるべからず。純文界にも、批評界にも、或は時事界にも、済々たる名士羅列するを見る。然れども余は存生中の人を評論するに於て、二箇のおもしろからぬ事あるを慮《おもんぱか》るなり、其一は、もし賞揚する時に諛言《ゆげん》と誤まられんか、若し非難する時に詬評《こうひやう》と思はれんか、の恐れあり。其二は、自らの主義、人間は Passion の動物なれば、少くとも自家の私見、善く言ひて主義なるものに拘泥《こうでい》することなき能はず、故に若し一の私見と他の私見と撞着したる時に、近頃流行の罵詈《ばり》評論に陥ることなきにしもあらず。之を以て余は敢て現存の大家に向つて直接の批評を加へざるべしと雖《いへども》、もし余が観察し行く原質《エレメント》の道程に於て相衝当する事あらば、避くべからざる場合として之を為すことあるべし。
余は「明治文学管見」の第一として、「快楽《プレジユーア》」と「実用《ユチリチー》」とを論ずべし。
「快楽」と「実用」とは疑もなく「美」の要素なり、必らずしもプレトーを引くには及ばず。
マシユー・アーノルドは、「人生の批評としての詩に於ては、詩の理、詩の美の定法に応《かな》ふかぎりは、人生を慰め、人生を保つことを得るなり」と云へり。
文学が一方に於て、人生を批評するものなることは、余も之を疑はず。然れども、アーノルドの言ふ如く、人生の批評としての詩は又た詩の理と詩の美とを兼ねざるべからず。吾人文学を研究するものは、単に人生の批評のみを事とせずして、詩の理と詩の美とをも究むるにあらざれば不可なるべし。
人生を慰むるといふ事より、Pleasure なるものが、詩の美に於て、欠くべからざる要素なる事を知るを得べし。人生を保つといふ事より Utility なるものが、詩の理に於て、欠くべからざる要素なる事を知るべし。真に人生を慰め、真に人生を保つには、真に人生を観察し、人生を批評するの外に、真に人生を通訳することもなかるべからず。人生を通訳するには、人生を知覚[#「知覚」に傍点]せざるべからず。故に天賦の詩才ある人は、人間の性質を明らかに認識するの要あるなり。然らざればヂニアスは真個の狂人のみ、靴屋にもなれず、秘書官にもなれぬ白痴のみ。
人生(Life)といふ事は、人間始まつてよりの難問なり、哲学者の夢にも此難問は到底解き尽くす可らずとは、古人も之を言へり。若し夫れ、社界的人生などの事に至りては、或は鋭利なる観察家の眼睛《がんせい》にて看破し得ることもあるべけれど、人生の Vitality に至りては、全能の神の外は全く知るものなかるべし。故に詩人の一生は、黙示の度に従ひて、人生を研究するものにして、感応の度に従ひて、人生を慰保するものなるべし。
快楽と実用とは、主観に於ては美の要素[#「要素」に傍点]なりと雖、客観に於ては美の結果[#「結果」に傍点]なり、内部にありては、美を構成[#「構成」に傍点]するものなりと雖、外部の現象に於ては美の成果[#「成果」に傍点]なり。この二要素を論ずるに先《さきだ》ちて吾人は、
[#ここから3字下げ]
人生何が故に美を要するか
[#ここで字下げ終わり]
に就きて一言せざるべからず。
音楽何の為に人生に要ある。絵画何が故に人生に要ある。極めて些末《さまつ》なる装飾品までも、何が故に人生に要ある。何が故に歌ある。何が故に詩ある。何が故に温柔なる女性の美ある。何が故に花の美ある。何が故に山水の美ある。是等の者はすべて遊惰《いうだ》放逸《はういつ》なる人間の悪習を満足せしむるが為に存するものなるか。もし然らんには、人生は是等の凡《すべ》ての美なくして成存することを得べし。然るに古往今来、尤も蛮野《ばんや》なる種族に、尤も劣等なる美の観念を有し、尤も進歩せる種族に、尤も優等なる美の観念を有するは、何が故ぞ。尤も蛮野なる種族にも、必らず何につけてか美を求むるの念ある事は、明白なる社界学上の事実なり、或は鳥吟を摸擬し、或は美花を粗末なる仕方にて摸写するなどの事は、極めて劣拙の人種にも是あるなり。又た、尤も幼稚なる嬰児にても、美くしき玩弄品《トイス》を見ては能《よ》く笑ひ、音楽の響には耳を澄ます事は、普通なる事実なり。之を以て見れば文明といふ怪物が、人間を遊惰放逸に駆りたるよりして、始めて美の要を生じたりと見るの僻見なることは、多言せずして明らかなるべし。美は実に人生の本能に於て、本性に於て、自然に願欲するものなることは認め得べきことなり。斯の如く美を願欲するには、人生の本能、人性の本性に於て、然り、といふ事を知り得たらば、吾人は、一歩を進めて、
[#ここから3字下げ]
人生は快楽を要するものなりや否や
[#ここで字下げ終わり]
の一問を解かざるべからず。
快楽は何の為に、人生に要ある。人生は快楽なくして、生活し得べきものなるべきや。ピユリタニズムの極端にまで攀《よ》ぢ登りて見ても、唯利論の絶頂にまで登臨して見ても、人生は何事か快楽といふものなくては月日を送ること能はざるは、常識といふ活眼先生に問ふまでもなく、明白なる事実なり。
快楽は即ち慰藉《ゐしや》(Consolation)なり。詳《つまびらか》に人間生活の状態を観よ、蠢々《しゆん/\》※[#「口+禺」、第3水準1−15−9]々《ぎよう/\》として、何のおもしろみもなく、何のをかしみもなきに似たれど、其実は、個々特種の快楽を有し、人々異様の慰藉を領するなり。放蕩なる快楽は飲宴好色なり、着実なる快楽は晏居《あんきよ》閑楽なり、熱性ある快楽は忠孝仁義等の目的及び希望なり、誠実なる快楽は家を斉《とゝの》へ生を理するにあり。然れども是等は、特性の快楽を挙げたるのみ、若し通性の快楽をいふ時は、美くしきものによりて、耳目[#「耳目」に傍点](Sight and hearing)を楽しますことにあり。耳には音を聞き、目には物を睹《み》る、之《こ》れ快楽を願欲するの最始なり。然れどもマインド(智、情、意)の発達するに従ひて、この簡単なる快楽にては満足すること能はざるが故に、更に道義《モーラル》の生命《ライフ》に於て、快楽を願欲するに至るなり。道義の生命に於て快楽を願欲するに至る時は、単に|自然の摸倣《ネーチユーア・イミテーシヨン》を事とする美術を以て真正の満足を得ること能はざるは必然の結果なるが故
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