に、創造的天才《クリヱチーフ・ジニアス》の手に成りたる美を愛好するに至ることも、亦《ま》た当然の成行なり。美は始めより同じものにして、軽重増減あるものにあらざれど、美術の上に於ては、進歩すべきものなること是を以てなり。而して此観察点より推究する時は、尤も進歩したるモーラル・ライフ(道義の生命)を有つものは、尤も健全にして、尤も円満なる美を願欲するものなることは、判断するに難からじ。而して、社界進歩の大法を以て之を論ずる時は、尤も完全なる道義の生命を有する国民が尤も進歩したる有様にある事は、明白なる事実なれば、従つて又た、尤も円満なる快楽を有し、尤も完全なる美を願欲する人種が尤も進歩したる国家を成すことは、容易に見得べき事なり。吾人は更に、
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道義的生命([#ここから割り注]ライフという字は人生と訳するも可なり[#ここで割り注終わり])が快楽に相渉る関係
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に就きて一言せざる可からず。
道義《モーラル》といふ字を用ふるには、宗教及哲学に訴へて、其字義を釈説すること大切なるべし、然れども吾人は序言に於て断りしたる如く、成《な》る可《べ》く平民的に([#ここから割り注]平民的という言、爰に用ふるを得るとすれば[#ここで割り注終わり])、雑誌評論らしき、普通の諒解にうちまかせて、この字を用ふるなり。
人生は、フ※[#小書き片仮名ヒ、1−6−84]ジカルに於て進歩すると同時に、モーラルにも進歩するものなり、Phisical world の拡まり行くと共に Moral world も拡まり行くものなり。故に其必要とする快楽に於ても亦た、単に耳目を嬉《よろこ》ばすといふのみにては足らぬ様になるなり。加ふるに智情意の発達と共に、各種各様の思想を生ずるが故に、其の必要とする快楽も彼等の発達したる智情意を満足せしむる程の者たらざるべからず。かるが故に、道義的人生に相渉るべき適当の快楽なくしては、道義自身も槁《か》れ、人生自身も味なきに至らん事必せり。爰《こゝ》に於て、道義の生命の中心なる霊魂を以て、美の表現の中心なる宇宙の真美を味ふの必要起るなり。宇宙の真美は、或はサブライムといひ、或はビユーチフルと言ひ、審美学家の孜々《しゝ》として討究しつゝある問題にして、容易に論入すべきものにあらず。但し、余は、「人生に相渉るとは何の謂ぞ」と題する一文の中に其一端を論じたる事あれば、就いて読まれん事を請ふになむ。是より、
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「快楽」と「実用」との双関
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に就きて一言せむ。
「快楽」と「実用」とは特種の者にして、極めて密接なる関係あるものなり。実用を離れたる快楽は、絶対的には全然之なしと断言するも不可なかるべし。快楽の他の意味は慰藉《コンソレーシヨン》なる事は前にも言ひたり。慰藉といふ事は、孤立《アイソレーテツド》したる立脚点《スタンドポイント》の上に立つものにあらずして、何物にか双対するものなり。ヱデンの園に住みたる始祖には、慰藉といふものゝ必要は無かりし。之あるは人間に苦痛ありてよりの事なり。故に、
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人生何が故に苦痛あるか
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の一問を解くの止むべからざるを知る。
曰く、欲《パツシヨン》なる魔物が、人生の中に存すればなり。凡ての罪、凡ての悪、凡ての過失は欲あるが故にこそあるなれ。而して、罪、悪、過失等の形を呈せざる内部の人生に於て、欲と正義と相戦ひつゝある事は、苟《いやし》くも人生を観察するに欠くべからざる要点なり。この戦争が人生の霊魂に与ふる傷痍[#「傷痍」に傍点]は、即ち吾人が道義の生命に於て感ずる苦痛[#「苦痛」に傍点]なり。この血痕、この紅涙こそは、古昔より人間の特性を染むるものならずんばあらず。かるが故に、必要上より、「慰藉」といふもの生じ来りて、美しきものを以て、欲を柔らかにし、其毒刃を鈍くするの止むなきを致すなり。然れどもすでに必要といふ以上は、慰藉も亦た、多少実用の物ならざるにあらず。試に一例を挙て之を説かん。
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梅花と桜花との比較
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梅花と桜花とは東洋詩人の尤も愛好するものなり。梅花は、其の華[#「華」に傍点]に於ては、単に慰藉[#「慰藉」に傍点]の用に当つべきのみ、然れども、其果[#「果」に傍点]に於ては、実用[#「実用」に傍点]のものとなるなり。斯の如く、固有性[#「固有性」に傍点]に於て慰藉物なるもの、附属性[#「附属性」に傍点]に於て実用品たることあり(之と反対《ヴアイス・ヴアーサ》の例をも見よ)。桜花は果[#「果」に傍点]を結ばざるが故に、単に慰藉の用[#「用」に傍点]に供すべきのみなるかと問ふに、貴人の園庭に於て必らず無くてならぬものとなり居るところよりすれば、幾分かは実用[#「実用」に傍点]の性質をも備へてあるなり。(梅桜と東洋文学の関係に就きては他日詳論することあるべし)これと同じく家具家材の実用品と共に或種類の装飾品も亦た、多少実用の性質あるなり。屏風《びやうぶ》は実用品なり、然れども、白紙の屏風といふものを見たる事なきは何ぞや。装飾と実用との相密接するは、之を以て見るべし。之より、
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実用の起原
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に就きて一言すべし。
この問題は至難なるものなり。然れども、極めて雑駁《ざつぱく》に、極めて独断的に之を解けば、前に「快楽」の起原に就きて曰ひたる如く、人間は欲[#「欲」に傍点]の動物なるが故に、その欲[#「欲」に傍点]と調和したる度に於て、自家の満足を得る為に、意と肉とを適宜に満足せしむるが為に、必要とする器物もしくは無形物を願求するの性あること、之れ実用の起原なり。而して人文進歩の度に応じて「実用」も亦進歩するものなる事は、前に言ひたると同じ理法にて明白なり。人文進歩とは、物質的人生《フ※[#小書き片仮名ヒ、1−6−84]ジカル・ライフ》と、道義的人生《モーラル・ライフ》との両像に於て進歩したるものなるが故に、「実用」も其の最始に於ては、単に物質的需用を充たすに足りし者が追々に、道義的需用を充たすに至るべき事は当然の順序なり。他の側面より見る時は野蛮人と開化人との区別は、道義性の発達したりしと否とにありといふも、不可なかるべし。爰に於て道義的人生に相渉るべき文学なるものは、人間の道義性を満足せしむるほどのものならざるべからざる事は、認め得べし。之より、
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道義的人生の実用
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とは何ぞやの疑問にうつるべし。
人間を正当なる知識に進ましむるもの(学理[#「学理」に傍点])其一なり、人間を正当なる道念に進ましむるもの(倫理[#「倫理」に傍点])其二なり、人間を正当なる位地に進ましむるもの(美[#「美」に傍点])其三なり。
斯の如く概説し来りたるところを以て、吾人は、快楽と実用との上に於て吾人が詩と称するものゝ地位を瞥見《べつけん》する事を得たり。快楽即ち慰藉は、道義的人生に欠くべからざるものたると共に、実用も亦た道義的人生に欠くべからざるものなる事を見たり。但し慰藉は主として道義的人生に渉る性を有し、実用は客観に於ては物質的人生に渉ると雖、前にも言ひし如く、到底主観に於ては道義的人生にまで達せざるべからざるものなり([#ここから割り注]此事に就きては恐らく詳論を要するなるべし[#ここで割り注終わり])。
余は「快楽」と「実用」との性質に就き、及び此二者が人生と相渉れる関係に就きて、粗略なる解釈を成就したり。是より、
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「快楽」と「実用」とが文学に関係するところ如何《いかん》
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に進むべし。
快楽と実用とは、文学の両翼なり、双輪なり、之なくては鳥飛ぶ能はず、車走る能はず。然れども快楽と実用とは、文学の本躰にあらざるなり。快楽と実用とは美の的[#「的」に傍点](Aim)なり。美の結果[#「結果」に傍点](Effect)なり。美の功用[#「功用」に傍点](Use)なり。「美」の本躰は快楽と実用とにあらず。これと共に、詩の広き範囲に於ても、快楽と実用とは、其的[#「的」に傍点]、其結果[#「結果」に傍点]、其功用[#「功用」に傍点]に過ぎずして、他に詩の本能[#「本能」に傍点]ある事は疑ふ可からざる事実なるべしと思はる。
若し事物の真価を論ずるに、其的[#「的」に傍点]、其結果[#「結果」に傍点]、其功用[#「功用」に傍点]のみを標率とする時は、種々なる誤謬[#「誤謬」に傍点]を生ずるに至るべし、本能[#「本能」に傍点]、本性[#「本性」に傍点]を合せて、其結果[#「結果」に傍点]、其功用[#「功用」に傍点]、其的[#「的」に傍点]、を観察するにあらざれば、余輩其の可なるを知らず。故に文学を評論するには、少くとも其本能本性に立ち入りて、然る後に功用[#「功用」に傍点]、結果[#「結果」に傍点]、目的[#「目的」に傍点]等の陪審官[#「陪審官」に傍点]に諮《と》はざるべからず。
快楽と実用とは詩が兼ね備へざるべからざる二大要素なることは、疑ふまでもなし。然れども詩《ポエトリー》が必らず、この二大要素に対して隷属すべき地位に立たざるべからずとするは、大なる誤謬なり。
吾人が日本文学史を研究するに当りて、第一に観察せざる可からざる事は、如何なる主義《プリンシプル》、如何なる批評眼、如何なる理論《セオリー》が、主要《ヲーソリチー》の位地を占有しつゝありしかにあり。而して吾人は不幸にも、世益主義[#「世益主義」に傍点](世道人心を益せざるべからずといふ論)、勧懲主義[#「勧懲主義」に傍点](善を勧め悪を懲《こ》らすべしといふ論)、及び目的主義[#「目的主義」に傍点](何か目的を置きて之に対して云々すべしといふ論)、等が古来より尤も多く主要[#「主要」に傍点]の位地に立てるを見出すなり。斯の如くにして、神聖なる文学を以て、実用と快楽に隷属[#「隷属」に傍点]せしめつゝありたり。宜《むべ》なるかな、我邦の文運、今日まで憐れむべき位地にありたりしや。
余は次号に於て、徳川時代の文学に、「快楽」と「実用」との二大|区分《クラシフ※[#小書き片仮名ヒ、1−6−84]ケーシヨン》ある事。平民文学、貴族文学の区別ある事。倫理と実用との関係。等の事を論じて、追々に明治文学の真相を窺《うかゞ》はん事を期す。(病床にありて筆を執る。字句尤も不熟なり、請ふ諒せよ。)
二、精神の自由
造化万物を支配する法則の中に、生と死は必らず動かすべからざる大法なり。凡《およ》そ生あれば必らず死あり。死は必らず、生を躡《お》うて来る。人間は「生」といふ流れに浮びて「死」といふ海に漂着する者にして、其行程も甚だ長からず、然るに人間の一生は「生」より「死」にまで旅するを以て、最後の運命と定むべからざるものあるに似たり。人間の一生は旅なり、然れども「生」といふ駅は「死」といふ駅に隣せるものにして、この小時間の旅によりて万事休する事能はざるなり。生の前は夢なり、生の後も亦た夢なり、吾人は生の前を知る能はず、又た死の後を知る能はず、然れども僅《わづ》かに現在の「生」を覗《うかゞ》ひ知ることを得るなり、現在の「生」は夢にして「生」の後が寤《ご》なるべきや否や、吾人は之をも知る能はず。
吾人が明らかに知り得る一事あり、其は他ならず、現在の「生」は有限なること是れなり、然れども其の有限なるは人間の精神《スピリツト》にあらず、人間の物質なり。世界は意味なくして成立するものにあらず、必らず何事かの希望を蓄へて進みつゝあるなり、然らざれば凡ての文明も、凡ての化育も、虚偽のものなるべし。世界の希望は人間の希望なり、何をか人間の希望といふ、曰く、個の有限の中にありて彼の無限の目的に応《かな》はせんこと是なり。有限は囲環の内にありて其中心に注ぎ、無限は方以外に自由なり、有限は引力によりて相結び、無限は自在を以て孤立することを得るなり
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