にその活力を失ひて、再び文学の庇護者たる名誉を荷《にな》ふ能はず。文学は却《かへ》つて活動世界の従僕となりて、勤王家、慷慨家等の名士をして其政治上の事業に附帯せしむるに至りぬ。此処にて一言すべきことあり。吾人は文学なる者をして何時の時代に於ても、必らず政治と離隔せしめざるべからずと論ずるものにあらず。文学は時代の鏡なり、国民の精神の反響なり、故に天下の蒼生が朝夕を安ずること能はざる時に当りて、超然身を脱して心を虚界に注ぐべしとするにあらず。畢竟するに詩文人は、其原素に於ては兵馬の人と異なるなきなり、之を詩人に形《かたちづく》り、之を兵士に形るものは、時代のみ。国民は常に活動を欲するものなり、国民は常にその巨人を造るなり、国民は常にその巨人によつて其精神を吐くものなり、国民は常に其精神を吐きて、盛衰の運を迎ふるものなり、精神の枯るゝ時、巨人の隠るゝ時、活動の消ゆる時、国民は既に衰滅の徴を呈するものなり。之を以て、巨人は必らず国民の被造者にして、而して更に復た国民の造物者たらずんばあらず。国家事多ければ、必らず、能く天下を理する人起るなり、国家徳乏しければ、必らず、聖浄なる君子世に立つなり、国家安逸ならば、必らず、彼の一国の公園とも云はるべき詩文の人起るなり、若し此事なくば国家は半ば死せるなり、人心は半ば眠りたるなり、希望全く無き有様に近きなり。読者よ誤解する勿《なか》れ、吾人は偏狭なる理論に頑守するものにあらず、吾人は国民をして、出来得る丈自由に其精神を発揮せしめんことを希望するものなり。宗教に哲学に、将《は》た文学に、国民は常に其耳を傾けてあるなり、而して「時代」なる第二の造化翁は国民を率ゐて、その被造物なる巨人の説教を聞かしむるなり。
 明治初期の思想は実に第二の混沌たりしなり。何が故に混沌といふ。看《み》よ、従来の紀綱は全く弛《ゆる》みたりしにあらずや、看よ、天下の人心は、すべての旧世界の指導者を失ひて、就いて聴くべきものを有《も》たざりしにあらずや、看よ、儒教道徳の大半は泰西《たいせい》の新空気に出会ひて、玉露のはかなく朝暉《てうき》に消ゆるが如くなりしにあらずや。然れども此混沌は原始の混沌の如くならず、速に他の組織を孕《はら》まんとする混沌なり、速に他の時代に入らんとする混沌なり。而して此混沌の中にありて、外には格別の異状を奏せざるも、内には明らかに二箇の大潮流が逆巻き上りて、一は東より、一は西より、必らず或処にて衝当るべき方向を指して進行しつゝあるを見るなり。
 吾人をして、此相敵視せる二大潮流を観察せしめよ。
 極めて解り易き名称にて之を言へば、其一は東洋思想なり、其二は西洋思想なり、然れども此二思想の内部精神を討《たづ》ぬれば、其一は公共的の自由を経験と学理とによりて確認し、且握取せる共和思想なり、而して其二は、長上者の個人的の自由のみを承認して、国家公共の独立自由を知らず、経験上にも学理上にも国家には中心となりて立つべきものあるを識れども、各個人の自己に各自の中心あることを認めざる族長制度的思想なり。
 明治の革命は既に貴族と平民との堅壁を打破したり、政治上既に斯の如くなれば、国民内部の生命なる「思想」も亦た、迅速に政治革命の跡を追躡《つゐでふ》したり、此時に当つて横合より国民の思想を刺撃し、頭を挙げて前面を眺めしめたるものこそあれ、そを何ぞと云ふに、西洋思想に伴ひて来れる(寧ろ西洋思想を抱きて来れる)物質的文明、之なり。
 福沢諭吉氏が「西洋事情」は、寒村|僻地《へきち》まで行き渡りたりと聞けり。然れども泰西の文物を説教するものは、泰西の機械用具の声にてありき、一般の驚異は自《おのづ》からに崇敬の念を起さしめたり、文武の官省は洋人を聘《へい》して改革の道を講じたり、留学生の多数は重く用ひられて一国の要路に登ることゝなれり、而して政府は積年閉鎖の夢を破りて、外交の事漸く緒《しよ》に就くに至れり、各国の商賈《しやうこ》は各開港塲に来りて珍奇実用の器物をひさげり、チヨンマゲは頑固といふ新熟語の愚弄《ぐろう》するところとなれり、洋服は名誉ある官人の着用するところとなれり。天下を挙《あげ》て物質的文明の輸入に狂奔せしめ、すべての主観的思想は、旧きは混沌の中に長夜の眠を貪《むさぼ》り、新らしきは春草未だ萌え出《いづ》るに及ばずして、モーゼなきイスラヱル人は荒原の中にさすらひて、静に運命の一転するを俟《ま》てり。
 斯の如き、変遷《トランジシヨン》の時代にありては、国民の多数はすべての預言者に聴かざるなり、而して思想の世界に於ける大小の預言者も亦た、国民を動かすに足るべき主義の上に立つこと能はざるなり。之を以て思想界に、若し勢力の尤も大なるものあらば、其は国民に向つて極めて平易なる教理を説く預言者なるべし。再言すれば敢て国民を率ゐて或処にまで達せんとする的《てき》の預言者は、斯かる時代に希ふ可からず。巧に国民の趨向《すうかう》に投じ、詳《つまびら》かに其の傾くところに従ひ、或意味より言はゞ国民の機嫌を取ることを主眼とする的《てき》の思想家より多くを得る能はず。爰に於て吾人は小説戯文界に於て、仮名垣魯文翁の姓名を没する能はず。更に高品なる戯文家としては成島柳北翁を推さゞるべからず。蓋《けだ》し魯文翁の如きは徳川時代の戯作者《げさくしや》の後を襲ぎて、而して此の混沌時代にありて放縦を極めたるものゝみ。柳北翁に至つては純乎たる混沌時代の産物にして、天下の道義を嘲弄し、世道人心を抛擲《はうてき》して、うろたへたる風流に身をもちくづしたるものなり。吾人は敢て魯文柳北二翁を詰責するものにあらず、唯だ斯かる混沌時代にありて、指揮者をもたざる国民の思想に投合すべきものは、悲しくも斯《かゝ》る種類の文学なることを明言するのみ。
 眼を一方に転ずれば、彼《かの》三田翁が着々として思想界に於ける領地を拡げ行くを見るなり。文人としての彼は孳々《じゝ》として物質的知識の進達を助けたり、彼は泰西の文物に心酔したるものにはあらずとするも、泰西の外観的文明を確かに伝道すべきものと信じたりしと覚ゆ。教師としての彼は実用経済の道を開きて、人材の泉源を造り、社会各般の機務に応ずべき用意を厳にせり。故に泰西文明の思想界に於ける密雲は一たび彼の上に簇《あつ》まりて、而して後八方に散じたり。彼は実に平民に対する預言者の張本人なり。前号にも言ひし如く、維新の革命は前古未曾有の革命にして、精神の自由を公共的に振分けんとする革命にてあれば、此際に於て尤も多く時代に需《もと》めらるべきは、此目的に適ひたるものなるが故に、其第一着として三田翁は皇天の召に応じたるものなり。然れども吾人を以て福沢翁を崇拝するものと誤解すること勿れ、吾人は公平に歴史を研究せんとするものなり、感情は吾人の此塲合に於て友とするものにあらず、吾人は福沢翁を以て、明治に於て始めて平民間に伝道したる預言者なりと認む、彼を以て完全なる預言者なりと言ふにはあらず。
 福沢翁には吾人、「純然たる時代の驕児《けうじ》」なる名称を呈するを憚《はゞか》らず。彼は旧世界に生れながら、徹頭徹尾、旧世界を抛《な》げたる人なり。彼は新世界に於て拡大なる領地を有すると雖、その指の一本すらも旧世界の中に置かざりしなり。彼は平穏なる大改革家なり、然れども彼の改革は寧ろ外部の改革にして、国民の理想を嚮導《きやうだう》したるものにあらず。此時に当つて福沢氏と相対して、一方の思想界を占領したるものを、敬宇先生とす。
 敬宇先生は改革家にあらず、適用家なり。静和なる保守家にして、然も泰西の文物を注入するに力を効《いた》せし人なり。彼の中には東西の文明が狭き意味に於て相調和しつゝあるなり。彼は儒教道教を其の末路に救ひたると共に、一方に於ては泰西の化育を適用したり。彼は其の儒教的支那思想を以てスマイルスの「自助論」を崇敬[#「崇敬」に傍点]したり。彼に於ては正直なる採択[#「採択」に傍点]あり、熱心なる事業[#「事業」に傍点]はなし、温和なる崇敬[#「崇敬」に傍点]はあり、執着なる崇拝[#「崇拝」に傍点]はなし。彼をして明治の革命の迷児とならしめざるものは、此適用[#「適用」に傍点]、此採択[#「採択」に傍点]、此崇敬[#「崇敬」に傍点]あればなり。多数の漢学思想を主意とする学者の中に挺立して、能く革命の気運に馴致《じゆんち》し、明治の思想の建設に与《あづか》つて大功ありしものは、実に斯る特性あればなり。改革家として敬宇先生は無論偉大なる人物にあらざるも、保守家としての敬宇先生は、少くも思想界の一偉人なり。旧世界と新世界とは、彼の中にありて、奇有《けう》なる調和を保つことを得たり。
 福沢翁と敬宇先生とは新旧二大潮流の尤も視易き標本なり、吾人は極めて疎略なる評論を以て此二偉人を去らんとす。爰に至つて吾人は眼を転じて、政治界の変遷を観察せざるべからず。

     四、政治上の変遷

 族長制度の真相は蛛網《ちゆまう》なり。その中心に於て、その制度に適する、すべての精神を蒐《あつ》むるなり。而して数百数千の細流は其中心より出でゝ金環を周綴《しうてい》し、而して又た再び其の金環より中心に帰注するものなり。
 斯の如き真相は吾人、之を我が封建制度の上にも同じく認むるなり。欧洲各国の歴史が一度経過したる封建制度と我が封建制度との根本の相違は、蓋し此点に於て存するなり。然れども尤も多く族長制度的封建を完成したるは、之を徳川氏に見るのみ。足利氏は終始事多くして、制度としては何の見るべきところもなし、北条氏は実権は之を保有せしにせよ、其状態は恰も番頭の主家を摂理するが如くなりしなり。源家に至りては極めて規模なく、極めて経綸なきものにして、藤原氏の如きは暫らく主家を横領したる手代のみ。藤原氏の時代には政権の一部分[#「一部分」に傍点]は猶《なほ》皇室に属したり。源氏北条氏の時代に於ては、政権は既に大方武門に帰したりと雖、なほ文学宗教等は王室の周辺にあつまれり。降《くだ》つて徳川氏に至りては、雄大なる規模を以て、政治をも、宗教をも、文学をも、悉くその統一権の下に集めたり。徳川氏は封建制度を完成したり、その「完成」とは即ち悉皆《しつかい》日本社会に当篏《あては》めたるものにして、再言すれば日本種族の精神が其制度に於て「満足」を見出すほどに完備したるなり。
 徳川氏は封建としては、斯の如く完備したる制度を建設したり。故に徳川氏の衰亡は、即ち封建制度の衰亡ならざるべからず。日本民権は、徳川氏に於て、すべての封建制度の経験を積みたり、而して徳川氏の失敗に於て、すべての封建政府の失敗を見たり、天皇御親政は即ち其の結果なり。
 徳川氏の失敗は封建制度の墜落となれり。明治の革命は二側面を有す、其一は御親政[#「御親政」に傍点]にして、其二は聯合躰[#「聯合躰」に傍点]の治者是なり。更に細説すれば、一方に於ては、武将の統御に打勝ちたる王室の権力あり。他方に於ては、一団躰の統治乱れて聯合したる勢力の勝利あり。征服者として天下を治めたる武断的政府は徳川氏を以て終りを告げ、広き意味に於て国民の輿論の第一の勝利を見たり。而して之を促がしたるものは外交問題なりしことを忘るべからず。
 凡《およ》そ外交問題ほど国民の元気を煥発するものはあらざる也。之なければ放縦懶惰安逸虚礼等に流れて、覚束《おぼつか》なき運命に陥るものなり。徳川氏の天下に臨むや、法制厳密にして注意極めて精到、之を以て三百年の政権は殆《ほとんど》王室の尊厳をさへ奪はんとするばかりなりし、然るに彼の如くもろく仆《たふ》れたるものは、好《よ》し腐敗の大に中に生じたるものあるにもせよ、吾人は主として之を外交の事に帰せざるを得ず。而して外交の事に就きても、蓋し国民の元気の之に対して悖《ぼつ》として興起したることを以て、徳川氏の根蔕を抜きたる第一因とせざるべからず。
 国民の精神は外交の事によつて覚醒したり。其結果として尊王攘夷論を天下に瀰漫《びまん》せしめたり、多数の浪人をして孤剣三尺東西に漂遊せしめたり。幕府衰亡
前へ 次へ
全5ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
北村 透谷 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング