、而して人間は実に有限と無限との中間に彷徨《はうくわう》するもの、肉によりては限られ、霊に於ては放たるゝ者にして、人間に善悪正邪あるは畢竟《ひつきやう》するに内界に於て有限と無限との戦争あればなり、帰一《ユニチー》を求むるものは物質なり、調和を需《もと》むるものは物質なり、而して精神に至りては始めより自由なるものなり、始めより独存するものなり。
 人間は活動す、而して活動なるものは「我」を繞《めぐ》りて歩むものにして、「我」を離るゝ時は万籟《ばんらい》静止するものなり、自己の「我」は生存を競ふものなり、法の「我」は真理に趣くものなり、然れども人間の種族は生存を競ふの外に活動を起すこと稀なり、愛国|若《もし》くは犠牲等の高尚なる名の下にも、究極するところ生存を競ふの意味あり、人は何事をか求むるものなり、人は必らず情[#「情」に傍点]を離れざるものなり、人は自己を愛[#「愛」に傍点]するものなり、倫理道徳を守る前に人間は必らず自己の意欲に僕婢たるものなり、斯の如く意[#「意」に傍点]の世界に於て人間は禁囚せられたる位地に立つものなり。
 人生は斯の如く多恨なり、多方なり、然れども世界と共に存在し、世界と共に進歩する思想[#「思想」に傍点]なるものは、羅針盤なくして航行するものにあらずと見えたり。吾人は夢を疑ふ、然れども夢なるもの全く人間を離れたるものにあらず、吾人は想像力を訝《いぶか》る、然れども想像力なるもの全く虚妄なるものにあらず、吾人は理想を怪しむ、然れども理想なるもの全く人間と関係なきものにあらず、夢や、想像力や、理想や、是れ等のものはスフ※[#小書き片仮名ヒ、1−6−84]ンクスに属する妖術の種類にあらずして、何事をか吾人に教へ、何物をか吾人に黙示し、吾人をして水上の浮萍《うきくさ》の如く浪のまに/\漂流するものにあらざるを示すに似たり。且つ吾人は自ら顧みて己れを観る時に、何の希望もなく、何の目的もなく、在来の倫理に唯諾《ゐだく》し、在来の道徳を墨守《ぼくしゆ》し、何事かの事業にはまりて一生を竟《をは》るを以て、自ら甘んずること能はざるものあるに似たり。怪しむべきは此事なり。
 倫理道徳は人間を覊縛《きばく》する墨繩《ぼくじよう》に過ぎざるか。真人至人の高大なる事業は、境遇と周辺と塲所とによりて生ずるに止まるか。人間の窮通消長は、機会《チヤンス》なるものゝ横行に一任するものなるか。吾人は諾する能はず。別に精神なるものあり、人間の覚醒は即ち精神の覚醒にして、人間の睡眠は即ち精神の睡眠なり、倫理道徳は人間を盲目ならしむるものにあらずして、人間の精神に愬《うつた》ふるものならずんばあらず、高大なる事業は境遇等によりて(絶対的に)生ずるものにあらずして、精神の霊動に基くものならざるべからず、人間の窮通は機会の独断すべきものにあらずして、精神の動静に因するものならざるべからず。精神は自《みづか》ら存するものなり、精神は自ら知るものなり、精神は自ら動くものなり、然れども精神の自存、自知、自動は、人間の内にのみ限るべきにあらず、之と相照応するものは他界にあり、他界の精神は人間の精神を動かすことを得べし、然れども此は人間の精神の覚醒の度に応ずるものなるべし。かるが故に人間を記録する歴史は、精神の動静を記録するものならざるべからず、物質の変遷は精神に次ぎて来るものなるが故に、之を苟且《かりそめ》にすべしと云《いふ》にはあらねど、真正の歴史の目的は、人間の精神を研究するにあるべし。人生実に無辺なり、然も意味なき無辺にあらず、畢竟するに精神の自由の為に砂漠を旅するものなり、希望爰に存し、進歩爰に萌《きざ》すなり、之なくんば凡ての事皆な虚偽なり。
 文学は人間と無限とを研究する一種の事業なり、事業としては然り、而して其起因するところは、現在の「生」に於て、人間が自らの満足を充さんとする欲望を填《ふさ》ぐ為にあるべし。文学は快楽を人生に備ふるものなり、文学は保全を人生に補ふものなり。然れども歴史上にて文学を研究するには、そを人生の鏡とし、そを人生の欲望と満足の像影として見ざるべからず。人生は文学史の中に其骸骨を留むるものなり、その宗教も、その哲学も、文学史の中に散漫たる形にて残るもの也、その欲望も、其満足も、文学史の上には蔽ふべからざる事実となるなり、而して吾人は、その欲望よりも、其満足よりも、其状態よりも、第一に人生の精神を知らざるべからず、吾人は観察[#「観察」に傍点]なるものゝ甚だ重んずべきを認む、然れども状態《ステート》を観察するに先ちて、赤裸々の精神を視《み》ざるべからず、認識せざるべからず、然かる後にその精神の活動を観察せざる可からず。
 精神は終古一なり、然れども人生は有限なり、有限なるものゝ中にありて無限なるものゝ趣きを変ゆ。東洋
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