の最大不幸は、始めより今に至るまで精神の自由を知らざりし事なり、然れども此は東洋の政治的組織の上に言ふのみ、其宗教の上に於ては大なる差別《けぢめ》あり。始めより全く精神の自由を知らず、且つ求めざるの国は必らず退歩すべきの国なり、必らず歴史の外に消ゆべきの国なり。政治と懸絶したる宗教に向つて精神の自由を求むるは、国民が政治を離るゝの徴なり。宗教にして若し政治と相渉ることなくんば、其邦の思想は必らず一方には極端なる虚想派[#「虚想派」に傍点]を起し、一方には極端なる実際派[#「実際派」に傍点]を起さゞるべからず。吾人は他日、日本文学と国躰との関係を言ふ時に於て、此事を評論すべし、今は唯だ、日本の政治的組織は、一人の自由を許すと雖《いへども》、衆人の自由を認めず、而して日本の宗教的組織は主観的に精神の自由を許すと雖、社界とは関係なき人生に於て此自由を享有するを得るのみにして、公共の自由なるものは、此上に成立することなかりしといふ事を断り置くのみ。
 爰に於て、吾人は読者を促がして前号の題目に反《かへ》らんことを請ふの要あり。人間は精神を以て生命の原素とするものなり、然れども人間生活の需要は慰藉と保全とに過ぐるなし、文学も其直接の目的は此二者を外にすること能はず。文学の種類は多々ありとも、この、直接の目的に外れたるものは文学にあらざるなり、而して何をか尤もこの目的に適《かな》ひたるものとすべきかは、此本題の外にあり。
 徳川時代文学の真相は、其時代を論ずるに当りて詳《つまびら》かに研究すべし、然れども余は既に逆路より余の研究を始めたり、極めて粗雑に明治文学の大躰を知らんこと、余が今日の題目なり。父を知らずして能く児を知るは稀れなり。之を以て余は今日に於て、甚だ乱雑なる研究法を以て、徳川文学が明治文学に伝へたる性質の一二を観察せんと欲す。
 文学の最初は自然の発生なり、人に声あり、人に目あると同時に、文学は発生すべきものなり、然れども其発達は、人生の機運に伴ふが故に長育するものなり、能く人生を楽ましめ、能く人生に功あるものは、人間に連れて進歩すべき文学なり。之を以て一国民の文学は其時代を出《いづ》ること能はざるなり、時代の精神は文学を蔽ふものなり、人は周囲によりて生活す、其声も、其目も、周囲を離るゝことは断じて之なしと云ふも不可なかるべし。
 徳川氏の前には文学は仏門の手に属したり、而して仏門の人間を離れたりしは、当時の文学の人間を離れたる大原因となりて居たりき。徳川氏の覇業を建つるや、恰《あたか》も漢土に於て儒教哲学の勃興せし時の事とて、文学の権を僧侶の手より奪ひ取ると同時に、儒教の趣味を満潮の如く注ぎ込みたり。然るに徳川氏の覇業は、性質の革命にあらずして形躰の革命に止まりしが故に、従つて起りたる文学の革命も、僧侶の手より儒者の手に渡りたるのみにして、其性質に於ては依然として国民の一半に充つべきものにてありたり、疑もなく文学は此時代に於て復興したり、然も其復興は仏と儒との入れ代りに過ぎずして、要するに高等民種に応用さすべきものたるに過ぎざりし。之に加ふるに徳川氏は文学を其政治の補益となすことに潜心したるが故に、儒教も亦た一種の徳川的儒教と化し了し、風化を補ひ世道を益し、徳川氏の時代に適《かな》ふべきものにあらざれば、文学として世に尚《たふと》ばるべからざるが如き観をなせり。これ即ち徳川氏の時代にありて、高等民種(武士)の文学は甚だ倫理の圏囲に縛せられて、其範囲内に生長したる主因なり。
 然れども倫理といふ実用を以て、文学の命運を縮むるは詩神の許さゞるところなり。爰に於て俳諧の頓《には》かに、成熟するあり、更に又た戯曲小説等の発生するあり。戦乱|罷《や》んで泰平の来る時、文運は必らず暢達《ちやうたつ》すべき理由あり、然れども其理由を外にして徳川時代の初期を視る時は、一方に於て実用の文学大に奨励せらるゝ間に、他方に於ては単に快楽の目的に応じたる文学の勃として興起したるを視るべし。武士は倫理に捕はれたり、而して平民は自由の意志《ウイル》に誘はれて、放縦なる文学を形成せり。爰に至りて平民的思想なるものゝ始めて文学といふ明鏡の上に照り出づるものあり、これ日本文学史に特書すべき文学上の大革命なるべし。
 吾人は此処《こゝ》に於て平民的思想の変遷を詳論せず、唯だ読者の記憶を請《こは》んとすることは、斯の如く発達し来りたる平民的思想は、人間の精神が自由を追求する一表象にして、その帰着する処は、倫理と言はず放縦と言はず、実用と言はず快楽と言はず、最後の目的なる精神の自由を望んで馳せ出たる最始の思想の自由にして、遂に思想界の大革命を起すに至らざれば止まざるなり。
 維新の革命は政治の現象界に於て旧習を打破したること、万目の公認するところなり。然れども吾人
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