ば、奈何《いか》なる大家先生の所説なりとも、是に対して答弁するの権利[#「権利」に傍点]なきなり。然れども余自ら「山庵雑記」に言ひし如く、是非真偽は容易に皮相眼を以て判別すべきものならざるに、余が文章の踈雑《そざつ》なりしが為め、或は意気昂揚して筆したりしが為か、斯《かく》も誤読せらるゝに至りたるは極めて残念の事と思ふが故に、余は不肖を顧みず、浅膚《せんぷ》を厭はず、是より「評論」紙上に於て、出来得る丈誤読を免かるゝ様に、明治文学の性質を論ずるの栄を得んとす。之を為すは、本より愛山君の所説を再評するが為にはあらざるも、若し余が信ずるところに於て君の教示を促すべきことあらば、請ふ自ら寛《ゆる》うして、之を垂れよ。

 余は先づ明治文学の性質を以て始めんとす。而して、明治文学の性質を知らんが為には、如何なる主義が其中に存するかを見ざるべからず。純文界にも、批評界にも、或は時事界にも、済々たる名士羅列するを見る。然れども余は存生中の人を評論するに於て、二箇のおもしろからぬ事あるを慮《おもんぱか》るなり、其一は、もし賞揚する時に諛言《ゆげん》と誤まられんか、若し非難する時に詬評《こうひやう》と思はれんか、の恐れあり。其二は、自らの主義、人間は Passion の動物なれば、少くとも自家の私見、善く言ひて主義なるものに拘泥《こうでい》することなき能はず、故に若し一の私見と他の私見と撞着したる時に、近頃流行の罵詈《ばり》評論に陥ることなきにしもあらず。之を以て余は敢て現存の大家に向つて直接の批評を加へざるべしと雖《いへども》、もし余が観察し行く原質《エレメント》の道程に於て相衝当する事あらば、避くべからざる場合として之を為すことあるべし。
 余は「明治文学管見」の第一として、「快楽《プレジユーア》」と「実用《ユチリチー》」とを論ずべし。
「快楽」と「実用」とは疑もなく「美」の要素なり、必らずしもプレトーを引くには及ばず。
 マシユー・アーノルドは、「人生の批評としての詩に於ては、詩の理、詩の美の定法に応《かな》ふかぎりは、人生を慰め、人生を保つことを得るなり」と云へり。
 文学が一方に於て、人生を批評するものなることは、余も之を疑はず。然れども、アーノルドの言ふ如く、人生の批評としての詩は又た詩の理と詩の美とを兼ねざるべからず。吾人文学を研究するものは、単に人生の批評のみを事と
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