とするは、当然の勢なり。宗教の度と美術の度とは、殆ど一種の比例をなせり。一国民の美術は到底、その倫理の表象なり。野卑なる国民は卑野なる美術に甘んじ、高尚なる国民は高尚なる美術を求む、勇敢なる国民に勇武の物語出で、淫逸なる国民に淫逸なる史乗あり。畢竟するに、万物その自《おのづ》からなる声をなして、而して美術はその声を具躰にしたるものに過ぎざれば、形は如何にありとも、その声の主なる心にして卑野なれば、美術も卑野ならざらんと欲して得べからざるは至当の理なり。宇宙の中心に無絃の大琴あり、すべての詩人はその傍に来りて、己が代表する国民の為に、己が育成せられたる社会の為に、百種千態の音を成すものなり。ヒユーマニチーの各種の変状は之によりて発露せらる。真実にして容飾なき人生の説明者はこの絃琴の下にありて、明々地《あからさま》にその至情を吐く、その声の悲しき、その声の楽しき、一々深く人心の奥を貫ぬけり。詩人は己れの為に生くるにあらず、己が囲まれるミステリーの為めに生れたるなり、その声は己れの声にあらず、己れを囲める小天地の声なり、渠は誘惑にも人に先んじ、迷路にも人に後《おく》るゝなし、渠は無言にして常
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