」の前に立ちて甚しき相違あることなし。法は一なり。法に順《したが》ふものも亦た一なり。法と法に順ふものとの関係も亦た一なり。情及び心、漠として捕捉すべきやうなき如き情及び心、渠も亦た法の中にあり、渠も亦た法の下にあり。法の重きこと、斯《かく》の如し。斯《こゝ》に於て、凡ての声、情及び心の響なる凡ての声の一致を見る、高きも低きも、濁れるも清《す》めるも。然り、此の一致あり、この一致を観て後に多くの不一致を観ず、之れ詩人なり。この大平等、大無差別を観じて、而して後に多くの不平等と差別とを観ず、之れ詩人なり。天地を取つて一の美術となすは之を以てなり。あらゆる声を取つて音楽となすは之を以てなり。詩人の前には凡ての物、凡ての事、悉く之れ詩なるは之を以てなり。多くの不一致の中の一不一致を取り、多くの不平等の中の一不平等を取り、多くの差別の中の一差別を取り、而して之に恋着するを知つて、彼の大一致、大平等、大差別に悟入すること能はざるものは、未だ以て天地の大なる詩たるを知らざるものなり。難いかな、詩人の業や。
道徳を論ずるの書は多し。宗教の名と其の教法を設くるものは多し。然れども道徳は、未だ人間をして縦《ほしいまゝ》に製作せしむる程に低くならざるなり。宗教も亦た人間をして随意に料理せしむる程に卑しくならざるなり。道徳の底に一の道徳あり、宗教の底に一の宗教あるは、美術の底に一の美術あると相異なる所なからんか。要するにモーラリチーは一なるのみ。政治的に所謂《いはゆる》道徳なりとするところの者、例せば儒教の如きもの、未だ以てモーラリチーの本然とは言ふべからず。宗派的に所謂道徳なりとするところのもの、未だ以てモーラリチーの本然と言ふべからず。宗教の中の宗教とすべきは、その人性、人情に感応する所多きにあり。モーラリチーも亦た、然らんか。美術も亦た然らんか。畢竟《ひつきやう》するに宗教も美術も、人心の上に臨める大感化力なるに於ては、相異なるところあるなし。然れどもラスキンの言へる如く、美術は道義を円満にするの力を有すれども、宗教の如く道義を創作することは能はず。宗教の天啓たるが如く、美術も亦た一種の天啓なり。宗教の高尚なる使命を帯びたる如くに、美術も亦た高尚なる使命を帯べり。ヒユーマニチーは其の唯一の目的なり。無より有を出すにあらず。有を取りて之を完《まつた》うするものなり。尤も劣等なる動物
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