醜美を見て直ちに其醜美を決するは、未だ美を判ずるの最後にあらず。外極めて醜なるものにして、内極めて美なるものあり。外極めて美にして、内極めて醜なるものあり。醜と美とを判《わか》つは、必らずしも其形象に関はるにあらざるなり。形躰にあらはれたる醜美を断ずるは、独り眼眸《がんぼう》のみ。眼眸は未だ以て醜美を断ずる唯一の判官となすべきにあらず。鼓膜亦た関つて力あるべきものなり。否、否、眼眸も鼓膜も未だ以て真に醜美を判ずべきものにあらざるなり。凡《およ》そ形の美は心の美より出づ。形は心の現象のみ。形を知るものは形なり、心を視るものは又た心ならざるべからず。造化は奇《く》しき力を以て、万物に自からなる声を発せしむ、之を以て聊《いさゝ》かその心を形状の外にあらはさしむ、之を以てその情を語らしめ、之を以てその意を言はしむ。無絃の大琴懸けて宇宙の中央にあり。万物の情、万物の心、悉《こと/″\》くこの大琴に触れざるはなく、悉くこの大琴の音とならざるはなし。情及び心、一々其軌を異にするが如しと雖《いへども》、要するに琴の音色の異なるが如くに異なるのみにして、宇宙の中心に懸れる大琴の音たるに於ては、均しきなり。個々特々の悲苦及び悦楽、要するにこの大琴の一部分のみ。悲しき時は独り悲しむが如くなれども、然るにあらず、凡《すべ》てのものゝ悲しむなり、喜ぶ時は独り喜ぶが如くなれども、然るにあらず、凡てのものゝ喜ぶなり、「自然」は万物に「私情」あるを許さず。私情をして大法の外に縦《ほしいまゝ》なる運行をなさしむることあるなし。私情の喜は故なきの喜なり、私情の悲は故なきの悲なり、彼の大琴に相渉るところなければ、根なき萍《うきくさ》の海に漂ふが如きのみ。情及び心、個々特立して、而して個々その中心を以て、宇宙の大琴の中心に聯《つら》なれり。海も陸も、山も水も、ひとしく我が心の一部分にして、我れも亦た渠《かれ》の一部分なり。渠も我も何物かの一部分にして、帰するところ即ち一なり。四節の更迭《かうてつ》は、少老盛衰の理と果して幾程の差違かあらむ。樹葉の凋落《てうらく》は老衰の末後と如何の異別かあらむ。花笑ふ時に我も笑ひ、花落つる時に我も落つ。実熟する時に我も熟し、実墜つる時に我も墜つ。渠を支配する引力の法は、即ち我を支配する引力の法なり。渠を支配する生命の法は、即ち我を支配する生命の法なり。渠と我との間に「自然
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