富嶽の詩神を思ふ
北村透谷
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)空《くう》を
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)紅顔|今日《けふ》の白頭
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「二点しんにょう+貌」、第3水準1−92−58]
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)悠々《いう/\》
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空《くう》を望んで駿駆する日陽、虚に循《したが》つて警立する候節、天地の運流、いつを以て極みとはするならん。
朝《あした》に平氏あり、夕《ゆふべ》に源氏あり、飄忽《へうこつ》として去り、飄忽として来《きた》る、一潮《いつてう》山を噬《か》んで一世紀没し、一潮退き尽きて他世紀来る、歴史の載するところ一潮毎に葉数を減じ、古苔《こたい》蒸し尽して英雄の遺魂日に月に寒し。
嗟吁《あゝ》人生の短期なる、昨日《きのふ》の紅顔|今日《けふ》の白頭。忙々促々として眼前の事に営々たるもの、悠々《いう/\》綽々《しやく/\》として千載の事を慮《はか》るもの、同じく之れ大暮の同寝《どうしん》。霜は香菊を厭《いと》はず、風は幽蘭を容《ゆる》さず。忽《たちま》ち逝《ゆ》き忽ち消え、※[#「二点しんにょう+貌」、第3水準1−92−58]冥《ばくめい》として踪《たづ》ぬべからざるを致す。
墳墓何の権かある。宇内《うだい》を睥睨《へいげい》し、日月を叱※[#「口+它」、第3水準1−14−88]《しつた》せし、古来の英雄何すれぞ墳墓の前に弱兎《じやくと》の如くなる。誰か不朽といふ字を字書の中に置きて、而《しか》して世の俗眼者流をして縦《ほしいまゝ》に流用せしめたる。嗚呼《あゝ》墳墓、汝の冷々たる舌、汝の常に餓ゑたる口、何者をか噬《か》まざらん、何物をか呑まざらん、而して墳墓よ、汝も亦た遂に空々漠々たり、水流滔々として洋海に趣《おもむ》けど、洋海は終に溢れて大地を包まず、冉々《ぜん/\》として行暮する人世、遂に新なるを知らず、又た故《こ》なるを知らず。
花には花に弄《ろう》せられざるもの誰ぞ、月には月に翫《もてあそ》ばれざるもの誰ぞ、風狂も亦た一種の変調子、風狂も亦た一種の変調子なりとせば、人間いかにして変調子ならざる事を得む。暗冥《あんめい》なる「死」の淵に、相《あひ》及び相襲《あひつ》ぎて沈淪するもの、果して之れ人間の運命なるか。舌能く幾年の久しきに弁ぜん。手能く幾年の長きに支へん。弁ずるところ何物ぞ。支ふるところ何物ぞ。わが筆も亦た何物ぞ。言ふ勿《なか》れ、蓊欝《をううつ》たる森林、幾百年に亘りて巨鷲を宿らすと。言ふ勿れ、豊公の武威、幾百世を蓋ふと。嗟《あゝ》何物か終《つひ》に尽きざらむ。何物か終に滅せざらむ。寤《さ》めざるもの誰ぞ、悟らざるもの誰ぞ。損喪《そんさう》せざるもの竟《つひ》に何処《いづこ》にか求めむ。
寤《ご》果して寤か、寐《び》果して寐か、我是を疑ふ。深山《しんざん》夜に入りて籟あり、人間昼に於て声なき事多し。寤《さ》むる時人真に寤めず、寐る時往々にして至楽の境にあり。身躰四肢必らずしも人間の運作を示すにあらず、別に人間大に施為《せゐ》するところあり。ひそかに思ふ、終に寤《さめ》ざるもの真の寤《ご》か。終に寐せざるもの真の寐か。此境に達するは人間の容易《たや》すく企つる能はざるところなり。
愛すべきものは夫《そ》れ故郷なるか、故郷には名状すべからざるチヤームの存するあり。風流雅客を嘲《あざけ》るもの、邦家を知らざるの故を以て彼等を貶《へん》せんとする事多し。故郷は之れ邦家なり、多情多思の人の尤も邦家を愛するは何人か之を疑はむ。孤剣|提《ひつさ》げ来りて以太利《イタリー》の義軍に投じ、一命を悪疫に委《ゐ》したるバイロン、我れ之を愛す。」請ふ見よ、羅馬《ローマ》死して羅馬の遺骨を幾千万載に伝へ、死して猶《な》ほ死せざる詩祖ホーマーを。」邦家の事|曷《いづく》んぞ長舌弁士のみ能く知るところならんや、別に満腔の悲慨を涵《たゝ》へて、生死悟明の淵に一生を憂ふるものなからずとせんや。
俗物の尤も喜ぶところは憂国家の称号なり。而して自称憂国家の作するところ多くは自儘《じまゝ》なり。彼等は僻見多し、彼等は頑曲《ぐわんきよく》多し。彼等は復讐心を以て事を成す。彼等は盲目の執着を以て業を急《いそ》ぐ。彼等は夢幻中の虚想を以て唯一の理想となす。彼等の慷慨、彼等の憂国、多くは彼等の自ら期せざる渦流に巻き去られて終ることあるものぞ。
朽ちざるものいづくにある、死せざるものいづくにある。われ答を俟《ま》ちて躊躇《ちうちよ》せり、而して答遂に来らず。朽ちざるに近きものいづくにかある
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