。死せざるに近きものいづくにかある。われこの答へを聞かんが為に過去の半生を逍遙黙思に費《つひ》やせり。而して遂にその一部分を聞けりと思ふは、非か、非ならざるか。
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天地《あめつち》の分れし時ゆ、神さびて高く貴き駿河なる富士の高嶺《たかね》を、天の原振りさけ見れば渡る日の、影も隠《かく》ろひ、照る月の、光も見えず、白雲もい行憚《ゆきはゞか》り時じくぞ雪は降りける、語り継ぎ云ひ継ぎ行かん富士の高嶺は。(赤人)
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白雲、黒雲、積雪、潰雪《くわいせつ》、閃電《せんでん》、猛雷、是等のものを用役し、是等のものを使僕し、是等のものを制御して而して恒久不変に威霊を保つもの、富嶽《ふがく》よ、夫れ汝か。渡る日の影も隠ろひ、照る月の光も見えず、昼は昼の威を示し、夜は夜の威を示す、富嶽よ汝こそ不朽不死に邇《ちか》きものか。汝が山上の浮雲よりも早く消え、汝が山腹の電影よりも速に滅する浮世の英雄、何の戯れぞ。いさましや汝の山麓を西に馳する風、こゝろよや汝の山嶺を東に飛ぶ風。流転の力汝に迫らず、無常の権《ちから》汝を襲《おそ》はず。「自由」汝と共にあり、国家汝と与《とも》に樹《た》てり、何をか畏《おそ》れとせむ。
遠く望めば美人の如し。近く眺れば威厳ある男子なり。アルプス山の大欧文学に於ける、わが富嶽の大和民族の文学に於ける、淵源《えんげん》するところ、関聯するところ、豈《あに》寡《すくな》しとせんや。遠く望んで美人の如く、近く眺めて男子の如きは、そも我文学史の証《あか》しするところの姿にあらずや。アルプスの崇厳、或は之を欠かん、然れども富嶽の優美、何ぞ大に譲《ゆづ》るところあらん。われはこの観念を以て我文学を愛す。富嶽を以て女性の山とせば、我文学も恐らく女性文学なるべし。雪の衣を被《かつ》ぎ、白雲の頭巾《づきん》を冠りたる恒久の佳人、われはその玉容をたのしむ。
尽きず朽ちざる詩神、風に乗り雲に御して東西を飄遊し玉へり。富嶽駿河の国に崛起《くつき》せしといふ朝、彼は幾億万里の天崕《てんがい》よりその山巓《さんてん》に急げり、而して富嶽の威容を愛するが故に、その殿居に駐《とゞ》まり棲《す》みて、遂に復《ま》た去らず。是より風流の道大に開け、人麿赤人より降《くだ》つて、西行芭蕉の徒、この詩神と逍遙するが為に、富嶽の周辺を往返して、形《けい》なく像《ざう》なき紀念碑を空中に構設しはじめたり。詩神去らず、この国なほ愛すべし。詩神去らず、人間なほ味《あぢはひ》あり。
[#地から2字上げ](明治二十六年一月)
底本:「現代日本文學大系 6 北村透谷・山路愛山集」筑摩書房
1969(昭和44)年6月5日初版第1刷発行
1985(昭和60)年11月10日初版第15刷発行
初出:「文學界 一號」女學雜誌社
1893(明治26)年1月31日
入力:kamille
校正:鈴木厚司
2005年5月18日作成
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